第66話

文字数 946文字


「ごめんなさい」
 声がした方に振り返ると麻帆が立っていた。
「私、謝りたくて……」
「いいよ。もう謝らなくても、いいから」
 麻帆が近づこうとしたので、後ずさりした。
「どうして?」
「ぼくだって、自分のことで、いっぱい、いっぱいなんだ」
「でも、さっきのは本当の私じゃないから」
 そんなことを言っているから駄目なんだ。
 もう少しで口から出てしまいそうだった。
 いま謝りにきているきみも、小野寺に言われて嘘をついたきみも、昼にこの町から飛び出したいと言ったきみも、全てきみなんだ。
 ぼくは深く息を吸い、そして吐いた。

「昼も小野寺に言われて来たのか?」
 小さな声で訊いた。
 確かめておきたかった。
 はっとしたように眼を見開いた麻帆は、何も言わずにゆっくりと左右に頭を振った。
 そして、うつむいて小刻みに振り続けた。
 まるで遊園地でひとりはぐれて、怯えている幼ない子どものようだった。
 係わりたくない。でも、見捨てることは出来ない。ここで置き去りにすると、父親と同じになってしまう。
 どうにか踏みとどまった。ぼくは近寄って、肩に手を置いた。
 麻帆は細かく震えていた。
「大丈夫だから」
 言葉はいらないのかもしれない。
 自然と胸に抱き入れていた。
 髪をそっと撫でた。
 酸っぱいような汗の匂いが香水の中に混じっていた。 
 麻帆の震えが止まるまでそうしていた。

「何をしているんだ!」
 麻帆の身体が硬直した。甲高い声で小野寺だと判った。
 ぼくは麻帆を背に隠して、小野寺に向かいあった。
「急に姿が消えたから心配したよ」
「私のことは、放っておいて」
「こっちに来るんだ。一緒に帰ろう。お前はお兄ちゃんがいないと駄目なんだよ」
「お兄ちゃん? 兄妹なのか?」
 首を曲げて訊いた。背中で麻帆が頷くのを感じた。
「どうして、あんなことを妹にさせたんだ?」
 小野寺に訊かないではいられなかった。
「お前は惚れられたと思って、抱きたいと思ったはずだ」
 何か言い返したいけど、言葉が出てこない。
「東京者に赤っ恥をかかせて、大笑いしたかったのさ」
「そんな下らない理由で、妹を使ったのか?」
「きれい事を言うな!」
「田舎を飛び出して、東京に住んでいるだけなのに」
 ぼくは今、きっと笑ったのだろう。
 そのことが、小野寺を一層エキサイトさせたようだ。

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