第26話

文字数 1,345文字


 ぼくは立ち上がると大きく身体を伸ばした。
 そして、鼻からゆっくりと息を吸いながら胸を突き上げた。
 そのまま胸を落とさないようにして、
「こらっ!」と大声で怒鳴った。
 鳩が一斉に飛び立つ。
 次に「ばかっ!」と続けた。
 これは抑圧している怒りの感情を爆発させる練習なんだ。

 座長もさすがに驚いた様子で、こっちを向いていた。
 ユーコの大きな目が丸くなっている。
 ぼくは、「あ・え・い・う・え・お・あ・お」と五十音の発声練習を続けた。

 風が木漏れ日を揺らしている。
 陽だまりを追いかけていた鳩が、強い風が吹いて陰に隠されてしまった。
 木陰に座ったまま、ぼくは眼の前にある隔たりを観ていた。

 ユーコがまた、ひとり遊びを始めている。
 手と足を動かすパターンはまだつかめていない。
 
 座長は腕を組んで、社務所の塀にもたれて宙を見つめている。
 ボイジャー1号が去年、木星に最接近したニュースがあったけど、地球だと思っていた座長が木星になったみたいだ。
 いま帰ると、二泊三日のパック旅行じゃなくて、日帰りになってしまう。
 そう考えると笑えて来た。

 明日の公演の準備がどこまで進んでいるか気になった。
 恐らく実務的なことは出来ていないだろう。
「ボイジャー1号、木星に再び最接近せよ」と頭の中で指令を送った。
 ぼくは見えない隔たりをジャンプして飛び越えた。
 座長に公演時間と具体的な客の集め方を訊いた。
 社務所の正面側のスペースを使って、夕方の七時から始めるようだ。

 公演のチラシは千枚用意してあるとダンボール箱から取り出した。
 B五サイズのわら半紙にガリ版刷りで、「信州行脚夏興行」と演目の「無明」が大きく書いてある。
 キャッチコピーは「信濃路の夏に舞う 傀儡の群れ 闇の異形祭」で「時」「所」「木戸銭」と書いてある下は空白になっている。公演場所によって、手書きで加えるようだ。

 明日の昼頃に「のぼり旗」を持ってチラシを配るつもりだと言った。
 竹竿の「のぼり旗」が四本で、それぞれ、『無明』と黒地で白文字、『信州行脚夏興行』が白地で黒文字、『どんど』が赤地と白地に黒文字で書いてある。
 思っていた通りだ。座長は決意の割には、あまり準備をしていなかった。
「このチラシを神社の周辺に貼ればいいんじゃないですか」
 ここに着いた昨日の内に、とは言わなかった。
「それにポスターや立て看板、宣伝用POPも用意したほうがいいですよ」
 座長に提案をした。
「そうだな」
 頷いた座長は、ザ・スママでぼくを見つめた。

 いつもなら、ここで「判りました。足りない物は全て用意します」と言うところだけど、今日は意地悪く続けた。
「リヤカーの横に劇団名とか巡業コースを紹介するポスターを貼れば、移動している時に大勢の人に見てもらえますよ」
「そうだな」
「大きな紙やカラーマジックペンが必要です。リヤカーに積んでいますか?」
「マジックは何本かあるはずだ」
「持ってきた機材のリストはありますか?」
 作ってないことは判っていたけど訊いてみた。
 座長はアゴに手をやってしばらく考える振りをした。
「たしか……」
 と口の中で言ってからユーコを呼ぼうとしたのでぼくは手で止めた。
 あと、二、三回突っ込もうかと思ったけど、座長の困った顔を見るのが嫌になった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み