第60話

文字数 1,170文字


「生きているのがつらくて不安や哀しみに耐え切れなくなった時、優しい言葉よりもしっかりと抱きしめてもらうほうが安心するだろう」
 座長の「抱く」がセックスに結びつかないことは判っている。
 しかし、ぼくにはどうしても「抱く」ことは出来ない。
「座長、男が女を抱くってことはプラトニックじゃ済まなくなるんだぜ」と伊田さんが食い下がった。座長は「男とか女とか、意識することはない。俺は泣いているのが男でも抱いてやる」と言い切った。

 六時になったので、観客用の座布団を入口の脇に積み上げていると、どやどやと五人のグループが入って来た。
 その中に胸元が大きく開いたワンピースに着替えている麻帆の姿があった。
 三人の男性の一番背が低い男がメンバーを従えているようだ。
 その男は、目から鼻にかかる髪を右手の爪で掻き上げた。
「小野寺だ。母に電話をかけたのは君か?」
 その甲高い声に、蔑みが含まれているように感じた。
「そうですけど」
 応えたぼくを、小野寺は値踏みでもするかのように、じろじろ眺め回した。
「話の途中で電話を切るなんて失礼だろ」
 どうやらぼくは、安値に決まったようだ。
「失礼しました」
 十円玉が無かったとはいえなかった。

 まだ眼の前に立っていて、謝らないといけないというような圧力を出している。
 尊大さをわざとアピールしているようにしか思えない。
「入口に立たれると、他のお客さんの邪魔になるんで早く座って下さい」
 誰も来ていないのに言った。
 一瞬気おくれした顔つきをした小野寺は、わざとらしい舌打ちを大きくした。
 そして、四人が固まっている真ん中の座布団に座りこんだ。

 ぼくも小さく舌打ちをした。
 つい、むきになってしまう自分に対してだ。
 麻帆は小野寺の後ろに座って、振り向く気配をみせない。
 さっきも視線を合わせなかった。

 小野寺が来たことを報告するために、二階へ上がった。
 六畳が二間続いている奥の部屋が座長とユーコの部屋になっていた。
 襖が全開してあるので、気兼ねをしないで入った。
 丁度ユーコが座長の腋の下を白塗りしている。
 その手馴れた手つきが、どうしても貴衣さんと重なる。

「小野寺が来ましたよ」
「どんな奴だ?」
「才能があるかのように振る舞っている、とても嫌な奴です」
 ミケランジェロの「瀕死の奴隷」像の格好をした座長は、あきれたような笑い方をした。
「小野寺って後藤君の関係者ですか?」
 遠まわしに様子を探った。
「直接じゃないが、後藤の知り合いの伝手だ」
「後藤君に、この巡業のことを話したんですか?」思い切って尋ねた。
「いや、知り合いがこっちにいると聞いたから、連絡先を訊いただけだ」
「そうですか」
 どうしてぼくに相談してくれなかったのかとは訊けなかった。
 でも、気分が晴れて喜んでいる自分を持て余しながら、とんとんとんと階段を駆け下りた。

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