第二話 落ちこぼれの隠れた才能

文字数 6,592文字

 ルフト・パーカーは、長い廊下を全力で逃げていた。
 栗色の髪を揺らしながら、彼は懸命に足を動かす。

 制服の上に羽織ったケープが鬱陶しい。
 すぐにでも脱ぎ捨てたいところだが、今は一瞬でも気を逸らすのが恐ろしかった。

「ハァ、ハァ……くそっ」

 息も絶え絶えにルフトは悪態を吐く。
 数十分前からこの調子だ。
 あまり体力がある方ではないルフトは、既に限界寸前である。

 しかし、どれだけ疲れても決して止まることはできない。
 ルフトは青い顔で後方を確認する。

「一体どうなっているんだ……」

 廊下を無数のゾンビが彷徨っていた。
 大半が彼と同じ制服を着ている。
 中には顔見知りもいた。
 共通しているのは、誰もが無表情で呻き声を上げている点だろうか。

 彼らの一部はルフトを追うようなそぶりを見せている。
 ほとんど歩みに近い速度だが、あまり油断はできそうにない。
 ゾンビはまさに神出鬼没。
 数が多いだけに、どこからでも現れる可能性があるのだ。

 苦い顔で前を向き直したルフトは、足元の何かに躓く。

「うおっ!?」

 ルフトは反射的に身体を動かし、なんとか転倒だけは防いだ。
 さすがにここでひっくり返ったら笑えない。
 彼は何に足を引っかけたのかを確かめて、ぎょっとする。

 それは上半身だけのゾンビだった。
 下半身は数メートル先に転がっており、腸だけで辛うじて上半身と繋がっている。
 見るも無残な状態にも構わず、ゾンビはルフトに手を伸ばしていた。

「――最悪だ」

 ルフトは吐き捨てるようにつぶやくと、その場から走り去る。
 焦燥感と恐怖は、彼の心を着実に蝕みつつあった。





 ビオルド魔術学園。
 普段なら清閑な雰囲気漂う場所だが、現在はゾンビが跋扈する地獄である。

 事の発端は単純なものだ。
 学園の建つ都市でゾンビパンデミックが発生し、怪我人の一部が園内に運び込まれた結果、瞬く間に感染が広まった。

 王都から離れていることもあり、ゾンビに関する知識や危険意識が薄かったのも原因だろう。
 もしその辺りの認識と理解が徹底されていれば、事態はここまで酷くならなかったかもしれない。
 今となっては後の祭りだが。

 ともかくそういった事情を経て、魔術学園はゾンビの脅威に晒されている。
 ルフトは数少ない生存者の一人として、どこか安全な場所を求めていた。

「この辺りもダメか……」

 柱の陰から周囲を見回すルフトは、ゾンビと死体ばかりの光景に落胆する。
 走る体力がなくなったため、先ほどからこのように慎重な行動を心がけていた。
 おかげでゾンビに追われる頻度は減り、幾分か冷静さを取り戻しつつある。

「仕方ない、とりあえず正面玄関に向かって……ん?」

 ルフトは近くの階段へ進もうとして、すぐさま足を止める。
 ちょうどその階段から激しい足音と何か争う声が聞こえてきたのだ。
 ルフトは階段を見下ろす位置まで移動すると、そっと覗き込んでみる。

 数名の生徒が階段の踊り場を陣取り、迫るゾンビの集団に抵抗していた。
 下のフロアからここまで後退してきたらしい。

 生徒たちは必死に魔術の詠唱を繰り返す。
 火球が弾けるたびにゾンビが黒焦げになり、幾本もの氷の槍がゾンビを貫いた。
 なかなかに高い威力と精度を備えている。
 彼らはこの魔術学園でも成績優秀な部類なのだろう、とルフトは推察した。

 しかし、ゾンビは際限なく湧いてくる。
 生徒たちが起こす戦闘音が呼び寄せているのだ。
 ウイルス兵器に侵された感染者の群れは、恐怖とは無縁の様子で前進し続ける。

「ど、どうしよう……もう、魔力が……!」

「弱音を吐くな! ここで踏ん張るしかないッ」

「畜生、どうしてこんなことに!」

 生徒たちは口々に叫びながら、魔術でゾンビを遠ざける。
 ただし、そのペースは明らかに停滞していた。
 ゾンビとの距離は段々と縮まっていく。

 魔術は何のリスクもなく無限に放てるものではない。
 使うたびに体内の魔力を消耗し、精神的な疲労も蓄積するのだ。
 無論、連発すればそれだけ負担も大きい。

 生徒たちの限界は近かった。
 いずれ体内魔力が尽きて動けなくなる。
 かと言って、ここから逃走するだけの体力的な余裕もなさそうだった。
 彼らに残された道は、この場でゾンビを殲滅することだけである。

 決死の攻防戦の最中、生徒の一人がルフトの存在に気付いた。
 彼女は泣きそうな顔で叫ぶ。

「助けて! そこから魔術を撃ってくれるだけでいいから!」

「…………」

 助けを求める声に対し、ルフトは悔しげに首を振った。
 目を伏せて力いっぱいに拳を握り締める。

「どうして何もしてくれないのッ!? 早く助けてよ!」

「……すみません」

 怒りの混ざった非難にも、ルフトはただひたすら謝る。

 決して悪意や保身から傍観を決め込んでいるわけではない。
 ルフトは魔術が使えないのだ。

 各魔術の適性は、その者の才能に大きく左右される。
 適性が高いほどその魔術は力は強まり、逆に適性が低ければ弱まる。

 ルフトの場合は後者だ。
 一般に知られるすべての魔術適性が全くない。
 大抵はどれだけ微小でも何かしらの魔術適性を備えているので、ルフトのような人間は珍しい。

 彼が魔術学園で誇れることと言えば、努力で身に着けた知識と、常人の数倍はある体内魔力量、それに魔法陣を描くスピードくらいだった。
 けれども、肝心の魔術適性が皆無なので、それらは何の役にも立たない。
 精々、座学の授業の成績が良くなるくらいである。
 陰で”落ちこぼれルフト”と揶揄されるのも仕方のない話だろう。

 そんな彼が魔術学園に在籍する理由は、ひとえに偉大な大魔術師になるためだ。
 自分の力で世界中の人々を救いたい。
 確かな想いは、ルフトの心に深く根付いている。
 魔術適性がないと知った後も、幼い頃の夢を未だ諦め切れずにいた。

 如何なる苦境にも耐え、ひたむきに努力する青年。
 それがルフトという人間である。

 もっとも、彼がどれだけ崇高な目的を掲げて魔術師を志そうとも、現実が非情なことに変わりはない。

 魔術が使えない彼の目の前で、ついに踊り場の生徒たちが食われ始めた。
 助けを求めてきた少女は、ゾンビに腹を引き裂かれている。
 潤んだ目は、恨みがましそうにルフトを見つめていた。

「嫌だぁ! だっ、誰、が……だずげてぇ……」

「痛い、痛い……死にだくな……い……」

 悲痛な声を聞きながら、ルフトはただ茫然とその光景を眺める。
 背を向けて逃げ出すことはできなかった。
 力になれないと悟りながらも、そこまで薄情にはなれなかったのだ。

 やがて生徒たちは、ゾンビによってすっかり食い散らかされた。
 原型など分からない状態だ。
 血だまりに制服の切れ端や髪の毛が混ざっていなければ、そもそも人間とすら認識できない有様である。

 こうなってしまっては、いつまでも居座るわけにもいかない。
 ゾンビが次に狙う獲物はルフトなのだから。
 彼は口元に手を当てながら踵を返す。

「無力で、何もできなくて、本当にごめんなさい……」

 振り絞るように紡がれた謝罪の言葉は、無数の呻きの中に消える。





 その後、ルフトは半ば翻弄されるようにして逃げ回った。
 魔術の使えない彼はゾンビを攻撃する手段を持たず、移動経路も自ずと限られてくるのだ。
 絶望的な状況は、ルフトのコンプレックスをより一層刺激した。

 だが、何も悪いことばかりではない。
 移動する中で、ルフトはゾンビに襲われる人々を幾度も目撃した。

 彼らは下手に魔術が使えるせいで大胆になり、結果としてゾンビに追い詰められていたのだ。
 ちょうどルフトが見捨てた踊り場の生徒たちのように。
 万能な力が慢心を生んだと言える。
 優秀な魔術師が次々と餌となる場で、ルフトが生き残る術を掴めたのは皮肉な話だろう。

 もっとも、そのような幸運も尽きようとしていた。
 石造りの螺旋階段を下りるルフトは、苦い表情でつぶやく。

「まずいな……逃げられない」

 彼の行く先は立入禁止の地下フロアがあった。
 ゾンビを避けているうちにここまで来てしまったのだ。

 地下フロアと地上を繋ぐのはこの螺旋階段のみで、進んだところで行き止まりである。
 しかし、ゾンビの集団が追ってきているので後戻りもできない。

 逃げ場のない地下でゾンビに食われるか、一か八かで地上を目指してゾンビに食われるか。
 現状から提示されるのは、あまりにも非情な二択。
 ルフトは、ひたひたと迫る死を予感していた。

「……笑えないね、まったく」

 ため息混じりにぼやきながら、ルフトは螺旋階段を下り切る。

 そこには両開きの鋼鉄製の扉があった。
 扉のプレートには”禁書庫”と記載されている。
 どうやらこのフロア全体が一つの部屋になっているらしい。

「ん? これは……」

 ふと視線を落としたルフトは、足元に散らばった金属片に気付く。
 ばらばらになった何かの部品だ。
 高熱で炙られたのか、黒く変色して歪んだものが多い。
 見ればドアノブも同じような状態になっていた。

 ルフトは座学で習った知識を掘り起こす。
 辛うじて残った形状から推測するに、元は防犯用の魔道具だったのだろう。
 許可なく触れた者に呪縛を施す凶悪なタイプである。

 正しい解除方法を行えば、魔道具はこのような壊れ方をしない。
 つまり、何者かが施錠された禁書庫に無理やり侵入したのだ。

 ルフトは腕組みをして考え込む。

「ふむ……」

 侵入者がまだ室内にいるのかは不明だ。
 わざわざ地下の禁書庫を訪れた理由も分からない。
 場所が場所なだけに、その人物と鉢合わせるのは危険かもしれない。

 逡巡するルフトはしかし、後方からの呻き声を聞いて我に返った。
 どのみち戻るわけにはいかないのだ。
 僅かにでも生きる可能性に賭けるならば、この先へ行くしかあるまい。

 ルフトは緊張の面持ちで禁書庫の扉を押し開いた。
 そして、室内に入ってすぐに近くの本棚を倒して扉を塞ぐ。
 これでゾンビが押し寄せてきても、多少は時間を稼げるだろう。

 ほっと息を吐いたルフトは、改めて室内を見渡す。

「これはまた、随分と荒らされているな……」

 天井まで本棚で埋め尽くされた室内。
 至る所に書物が散乱していた。
 侵入者が何かを探していたのだろうか。
 仮に数冊ほど持ち出されていたとしても、この状態では特定も難しそうだ。

「さすが禁書庫。見たことのない本ばかりだ」

 ルフトは物珍しげに室内を歩き回る。
 幸か不幸か、彼の他には誰もいなかった。
 扉の魔道具を壊した侵入者は、既にどこかへ去ったようだ。

「何か役立つものでもあれば――うっ!?」

 ルフトが探索を続けていると、頭部に鈍い痛みが走った。
 何事かと振り向けば、一冊の古びた書物が床に落ちる。
 どうやら本棚に収まっていたものが抜けて、ルフトの頭に直撃したらしい。

 涙目のルフトは頭を撫でながら書物を拾い上げた。
 こびり付いた埃を払って表紙を確認する。

「召喚の魔術書……?」

 時空に干渉し、異なる場所や世界からモノを呼ぶ出す力。
 それが召喚魔術である。
 ただし、現代においては再現不可能な超高等魔術に分類されており、一般には歴史上に散見される程度の認識だった。

 召喚の魔術を持ったまま、ルフトは静かにつぶやく。

「そういえば、召喚魔術の適性は調べていなかったな……」

 各魔術の適性は、専用の魔道具によって数値化して測定できる。
 ルフトの場合、この結果がすべてゼロだった。
 適性は努力次第で上昇するものの、元の才能がなければそれすらも望めない。
 つまりルフトがどれだけ練習をしようとも、魔術が使えることはないのである。

 ところが、大抵の魔術適性の検査はすべての種類を調べるわけではない。
 使用できる者が少ない魔術やそもそも体系化されていない魔術――これを魔法を呼称する――に関しては、精密な検査が困難なことに加え、それなりのコストがかかる。
 召喚魔術のその一つだ。
 そういった特殊な魔術は適性持ちがほとんどいないので、わざわざ検査しない場合が多いのである。

 もしかしたら、召喚魔術を使えるかもしれない。
 根拠のない希望が、ルフトの胸の内に広がる。

「…………」

 ルフトは、幾分か緊張した様子で魔術書を読み進める。

 魔術書には霊獣と呼ばれる存在の概要と歴史、それに霊獣を召喚するための魔法陣について載っていた。
 霊獣とは時空の狭間に生息するとされる伝説の生物である。
 神話やお伽噺に登場するような存在で、地域によっては神と同一視されているほどだ。

 魔術書の内容を信じるならば、召喚者の魂の波動を使ってこの霊獣を召喚できるらしい。
 王国が研究し、此度の元凶とも言える勇者召喚の魔術とはまた別系統のようだ。

 魔術書をざっくりと読み終えたルフトは、顔を引き締める。

「霊獣召喚、試してみるか」

 それは非常に分の悪い賭けだ。
 複雑難解な魔法陣を構築するだけの知識と針に糸を通すような繊細な魔力操作、そこに比類なき才能が要求される。
 魔術が起動しないだけならまだ優しい方で、魔力を消耗しすぎて気絶したり、術式が暴走した反動で死ぬ可能性だって十二分にあるのだ。
 手の込んだ自殺とも言える。

 だが、このまま禁書庫に閉じこもったところで希望はない。
 封鎖した出入り口からは、ゾンビの不気味な合唱が聞こえてくる。
 ルフトを追ってきた群れが殺到しているようだ。
 十中八九、助けが来る前にゾンビの餌になってしまう。

 こうなったら、召喚魔術で霊獣を呼ぶしかあるまい。
 そう決意したルフトは、魔術書の手順を参考に準備を始めた。

 まずは魔力液に浸した羽ペンで地面に魔法陣を構築する。
 本来なら数人がかりでも相当な時間を要する工程だが、ルフトは僅か三十秒程度で完成させた。

「魔法陣を早く描ける特技がこんな時に役立つなんて……人生、分からないものだなぁ」

 苦笑気味に自嘲しながら、ルフトは指先をナイフで浅く切って血を滲ませた。
 傷口から垂れたそれを魔法陣の端に垂らす。

 すると、一粒の血が魔法陣の紋様に沿って広がり、煌々と光を放ち始めた。
 魔術が起動した合図である。

「僕には魔術適性が、あったんだ……!」

 ルフトは感動のあまり拳を握り締めて叫ぶ。
 それと同時に、体内の魔力を吸い取られる感覚が彼を襲った。
 不快かつ強烈な倦怠感を伴うものだが、今のルフトにとってはどうでもいいことだ。
 魔術を起動させられたことが、何よりも嬉しいのである。

 魔法陣の光は爆発的に強まり、ついには目を開けていられないほどになった。
 ルフトは腕で顔を隠し、高鳴る自身の鼓動を聞きながら耐える。

 やがて光の奔流は緩やかに勢いを落としていった。
 落ち着いたところで、ルフトはそっと腕を下げて魔法陣を確かめる。

 そこには、一人の若い女が立っていた。
 艶やかなセミロングの髪。
 この世界ではほとんど見られない黒色だ。

 服装は上下水色の長袖長ズボンである。
 厳密にはポリエステル製のスポーツジャージだが、ルフトが知るはずもない。

 女は不思議そうに辺りを見渡す。
 状況を把握していない様子だ。
 彼女はルフトに尋ねる。

「ねぇ、ここってどこ?」

「ビ、ビオルド魔術学園、です……」

 召喚魔術の予想外な結果に、ルフトはしどろもどろに答える。

 この時の彼はまだ知らなかった。
 自身の特異な才能が、世界に大きな影響を及ぼすことを。

 落ちこぼれの魔術師は、人知れず運命の歯車を回し始めたのであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み