オーバー・オーバー・ザ・レインボー (9)
文字数 965文字
ぽつりとつぶやいて、弟が淡く微笑む。
「こういうことを思いついて、やってのけてしまう、自分が」
そうだった、と、兄は思い出す。
この子が、あまり、本心を語ってくれないのは——
本心を表に出すと、苦しいからだ。
(変わっていない)
慈円は十三歳で出家。二十一歳のとき、千日入堂という過酷な修行をやりとげている。
その直後、実家に帰って、とつぜん
「お寺を出て隠遁したいです」
と告げる。
彼に何があったのか、歴史は黙して語らない。わかっているのは、そのとき渾身の力をかたむけて思いとどまるよう説得したのが、兄の兼実だったことだ。
当時、九条家は大黒柱となるべき父も長兄も喪い、没落の危機に瀕していた。
比叡山での出世が期待できる優秀な慈円は、一家の希望の星だったのだ。
あのとき、好きなようにさせてあげられていたら。
西行法師のように、気ままに旅をし、歌を詠み、そんな暮らしをさせてあげられていたら。
「何をしているんでしょうね、わたしたちは」たんたんと弟がつづける。「戦で亡くなった人びとをとむらうのが、寺のつとめ、
ではありません
。戦が、二度と、起こらないように。
戦を防ぐ。防ぐために、体を張る。
それができなくて、
宗教になんの意味があるんでしょうか」
「エイドリアン」
「まして、北陵と南都に分かれて勢力争いをくりひろげ、
朝廷との連携に不満があれば、
腐っていますよ」
「エイドリアン。もういい」
「兄さんも思うでしょう。朝廷も寺社も、天に見放されて当然だと。
なのに——
なのに、滅びたのは、平家だった。
わたしたちは、おめおめと生きのびて——」
「もういい。もう、やめてくれ」
「などということは」
熱をおびていた声が、ふたたび、すっと静まっていく。
「わたしは、口が裂けても申しません」
エイドリアンは歩を進め、手をのばして、エレベーターのボタンを押した。
ほどなくしてモーターのうなりとともに箱が到着し、扉が開く。
彼は先に入り、ドアを〈開〉に保ちつつ、おだやかな笑顔を向けてきた。
「お乗りにならないのですか?」
ともすれば
世渡る橋となるぞ かなしき
――清らかに守り抜きたいと思う仏法が、
ともすれば
世渡りの手段となることが 哀しいです。
慈円の歌だ。