サムウェア (5)
文字数 1,235文字
保元元年七月十日。
妹宮の御所に移った崇徳院のもとに、ひとりの貴族が参じる。
天下を動かすスーパーセレブ、
だった男だ――ほんの数日前までは。
藤原氏の「
新院と「同心」しての謀叛のうわさが立ち、すでに二日前、邸宅を没収されている。事実上の謀叛人認定だ。
ちなみに頼長は先の関白・藤原
兄がいる。
敵方だ。
父忠実は、これに先立つこと六年前、忠通を義絶。兄の彼から「氏長者」の地位を剥奪して弟の頼長に与えている。
なぜ、こう、誰も彼も、哀しいのだ。
武士だけじゃない。貴族たちだってこの時代、同じくらい魅力的だ。過激で、やばくて、哀しい。
頼長は保元の乱で戦死する。戦って死ぬのだ。享年三十七歳。あまりに優秀でエキセントリックだった若き野心家。流れ矢に当たって重傷を負い、苦しみぬいたあげく、舌を噛み切って自害する。凄絶だ。
この頼長くん、2012年の大河ドラマ『平清盛』では、山本耕史さんが熱演していて強烈だった。ぜひ山本耕史さんのビジュアルで再現してみてください。
整理しよう。保元の乱は──
崇徳院vs.後白河帝という、天皇家の兄弟の争いというより、
忠実・頼長(弟)父子vs.忠通(兄)という藤原氏の内紛に、院と帝がそれぞれ
「担がれた」
と言ったほうが正確だ。つまり、
「おれが頂点に立ちたい」
という人どうしの争いというより、
「
おれの推し
を頂点に立たせたい(そしておれがそいつを動かしたい)」という人どうしの争いだった。
だから、
鳥羽院が全力で崇徳院に圧をかけていた、ように見えるのは、
「かつて自分も祖父の白河院ザ・グレートに圧をかけられていたからその腹いせ」
みたいな、そういううざい嫁姑ドラマ的な話、ではなく。
鳥羽院が、渾身の力で押さえつけていたのは、
崇徳院という個人を超えた、もっとめちゃくちゃにからみあった朝廷内の対立だった、
ということだ。
ずっと一触即発だった。
鳥羽院の死によってその押さえが外れてしまった、ということだ。
保元の乱、合戦じたいは一日で決着がつく。
あっけない。
のちの源平争乱がインターバルをはさんで五年近くかかっていることを考えると、は? いちにち? と声が出ちゃうくらいあっけない。
結果は、崇徳院側の大敗。
院は讃岐に流罪と決まる。
『保元物語』によると――
新院は、牛車で護送されていく途中、父院の墓所に寄って今生のお別れを申し上げたいと望んだが、許されない。船の出立の刻限があるという理由で。
護送の者のせめてものはからいで、車から牛をはずして、ご墓所の方角へ向ける。
車中から聞こえるむせび泣きの声に、武士たちも思わず鎧の袖を濡らす。
讃岐へ渡る屋形船には、外から錠がさされた。
海の上。外から施錠せずとも、どこへ逃げられるというのだ。
完全に卑しい罪人あつかいだ。
貴賤上下、老若男女、聞いて涙しない者はなかったという。