第35話 猫の悩み

文字数 2,256文字





 この家に来てから、一夜明けて――。



ムゥ……


ムムムムムゥ……!



あなた、頑張って……!





 ハッと目を開ければ、対面のケージにいるイザベラが潤んだ瞳でおれを見つめている。

 



アーーーッ!

ものすごくやりづらいぞっ!

 

頼むから、おれがトイレに入っているときは凝視しないでくれっ



ごめんなさい。

つい、気になってしまって……



もう、お父さん……。

早くして



ああ、すまん。

おまえも入りたかったのか



うん……!

オシッコ、ずっと我慢してたんだぁ




 おれがその場から退()くと、メデアは砂の上にまたがった。



 娘の足元にある四角い容器は、人間が用意したネコトイレというものだ。



 容器の中には、公園などの砂とはおおよそ形状も質感も異なる人工的な砂が入っている。



 イザベラがいうには、屋内にいる猫はみんなこの人工トイレで用を足すものと決まっているらしい。



昨日ここに来てから、ほとんど何もしてなかったからな。

排泄を(もよお)すのは当然のこと


だが――

かつてないほど、窮屈だぞ!




 たったいま断念したばかりだが、まわりから注目されていなければ、スッキリと出すものを出していたはずなのだ。



 それがなんとなく落ち着かないという理由から、出すものも出せずにいる。




 我ながら、なんと情けないことか……。




 メデアが用足しを終えると、イソルダが不満げにこぼした。



クッサ!



ちょっ――!?

いちいち言わないでよっ!



トイレやりっぱなし、ニャウ



メデア。

猫のしきたりなんだから、きちんと砂はかけないとダメよ



いつもと勝手が違うからウッカリしてただけ!




 メデアは慌てて砂を手でかき寄せて、自らの痕跡を隠した。



 ニオイは緩和したが、それで根本的な問題が解決したわけではない。




 年頃の娘なのに不憫だ……。




ここはプライバシーがないのが問題だな



そうねぇ




 おれと子どもたちは今、一つの囲いの中で生活を共にしている。



 ケージの大きさは縦も横も適度なゆとりがあるから、個々に丸まって寝る程度のスペースなら確保できなくもない。



 しかし、トイレはたった一つだけ。



 たった一つのトイレをみんなで使う――



 そんなことは、これまで生きてきて一度もしたことがない。



おれたち野良猫は外を自由に歩けるから、トイレの場所もそのとき次第で変わる


トイレが同じ場所になることもあるが、位置までピッタリ合わせる必要はない


他の猫がどこでしたか、おおよその情報はニオイで把握できるし、あえて相手の使った場所の砂を掘ってまでするメリットなどないからだ


そのライフスタイルが、ここではまったく通らない……



あなたが不自由を感じる気持ちはわかるわ


けれど外と違って、安全に用が足せるのはいいことよ



まぁ、そうだが




 外にいれば外敵に襲われるリスクが常につきまとう。



 トイレ中は隙が多くなる分、警戒しなくてはならない。



トイレの後の待ち伏せ、ニャウ!




 イソルダはふざけて姉のもとに跳びかかった。



はっ倒すよっ!?




 砂を飛び散らしながら、メデアは平手打ちで応戦する。



子どもたちが遊んでいる分には微笑ましい図なんだがな



ふふ、そうね




 しかしトイレ使用中、常に誰かがそばにいるのは落ち着かん……。




 おれの正面、壁際に置かれたケージには、イザベラがいる。



 イザベラのケージは、おれたちのものより小型だ。



 とはいえ彼女しかいないので、窮屈であったとしてもトイレは占有できる。



おれもあんなふうに分けてもらったら、快適なのだが……




 肝心のモノは出ないが、つい不満が口をついて出てしまった。



 とはいえ、子どもたちと切り離されるのは我慢がならんし……。



それぞれが独立したスペースを確保できていれば、不満も解消されるのだが……




 すると、聞き覚えのある声が遠くから響いてきた。



おはようございまーす!



あれってもしかして……



ああ、猫オタに相違あるまい



何しに来たのかしら?



謎、ニャウ




 耳を澄ましてヤツの動向を窺っていると……



 その足音はみるみるこちらに接近し、たちまちドアがひらかれた。



お猫様方~!

お元気ですか~~~?



フン!

貴様はおれたちを裏切って、オーハラと共にこの囲いの中へ閉じ込めたではないか!


許さんぞっ!



ああ、その凍てつくようなまなざし!

今日も『神』のごとくお美しい!


まるで見る者を氷漬けにしてしまうような、〝神猫クールアイズ〟ですね!



やかましいっ!

貴様の言うことはいつも意味不明なのだ!




 おれが牙を()くと、猫オタは戦々恐々(せんせんきょうきょう)としたように平伏した。



うぅぅぅぅぅうぅぅ、神猫様ぁぁぁぁぁぁぁ……




 猫オタは顔だけ上げ、恐る恐るおれを見つめる。



 相変わらずその瞳からは、カラスに小便をひっかけられたような雫が(したた)っている。



さては昨日、お猫様方を捕まえてここに入れたことを根に持っているんですね!?


うわぁぁぁぁぁぁん!

せっかくなついてくれていたのに~~~っ!


誰か俺に時間巻き戻し(タイム・リターン)のスキルをくれぇ~~~!



うるさいぞっ!



裏切者は出ていけニャーーー!


(クソ)オタ、ニャウ!



そう(うな)らずに、お願いしますよ、お猫様方ぁぁぁ~!


どうか怒らずに、機嫌を直してください~っ!


いまから俺が、みなさまのためにケージを組み立てるので……!



ケージを……?



俺、こう見えて工作は得意なんです!

すでに大原さんにも、許可はいただきました!


お猫様方が快適に過ごせるよう気を配りましたので、完成するのを楽しみしていてください!




 猫オタは廊下に立てかけておいた金属の骨組みを運び込むと、その場にしゃがみ込んで作業を始めた。





















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登場人物紹介

紅 

ねこねこファイアー組の元ボス猫。

亡き友人であり部下でもあったオス猫に、妻のイザベラとその子どもたちを託され、結婚することになった。

夫婦仲は良好で近々子ども産まれる予定だが、生活は苦しく、落ち着ける居場所を求めている。

ワケあって住処を離れることとなったので、家族と共に町へ向かうが……。


イザベラ 

紅の妻。メデアとイソルダの母猫。

メデアとイソルダは、亡き夫とのあいだにできた子ども。亡き夫はねこねこファイアー組の幹部のひとりだったが、ニャニャ丸組との抗争により深手を負い、他界した。

知性的な猫であり、ドアノブに手を伸ばして開けることもできる。

メデア 

紅夫婦の娘。

生まれたての頃は甘えん坊だった。弟に冷めたツッコミを入れることが多いが、逆にからかわれることも。

紅が父猫になるまではボスとして遠巻きに眺めるだけだったので、なかなか同居になじめなかったが、共に行動することで次第に心をひらいてゆく。

イソルダ 

紅夫婦の息子。

幼いころから体つきが丸く、運動嫌いが拍車をかけ、筋肉量の少ない体形はぷよんとしている。

スコティッシュフォールドのミックスだった父猫の影響を受け、片方だけ折れ耳。

口癖に「ニャウ」を多用する。調子に乗って姉のメデアをからかい、反撃を浴びることもしばしば。

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