第131話 エンプティネスト・シンドローム④

文字数 2,872文字





 一夜が明けた。




 起床し、食事を摂って、毛づくろいの後、軽い運動をする。



 いつものルーティンをこなしながらも、心がざわついて仕方がない。



……




 家族や他の猫たちも、身の置き所を失ったようにソワソワしている。



 一方オーハラは、朝早くから支度をしていた。



 子どもたちを里親のもとに連れていくための準備だ。



 遠目ながら玄関に二つのキャリーバッグが置かれているのが見える。



もう間もなく、その中にメデアとイソルダが入れられて、ここから旅立っていくのだな……



おいで~




 玄関から、子どもたちを呼ぶオーハラの声がした。



来たか……




 とうとう別れの時が来てしまった。



 口には出さないようにしているが、気持ちは憂鬱だ……。



そろそろ時間だね


ウニャウ




 納得したつもりでも、感情が波立たずにはいられない。



このままでは子どもたちが行ってしまう……!

おれのもとから去ってしまう……!




 ああ……



 時間を巻き戻せたら、どんなにいいだろう……!



元気でね……




 か細い声でイザベラが話しかける。



 いままで気丈に振る舞っていたイザベラだったが、さすがにその顔は物悲しさにつつまれている。



 子どもたちを産んでからずっと一緒だったのだから、別れが(つら)くないわけがない。



 メデアとイソルダが玄関に行くと、オーハラは脱走防止柵に手をかけた。



待てっ!




 おれはリビングからダッと駆け出し、脱走防止柵へ跳びこむ。



 境界が閉じられる寸前で、柵と壁のあいだに割りこんだ。



 身を(てい)して柵の動きを止めると、イザベラを中へ誘導する。



イザベラ、先に入ってくれ



ありがとう、あなた




 脱走防止柵の内側へイザベラが入っていくと、おれはそのあとに続いて玄関へ歩み寄った。



あら、神猫様と奥方様も入ってきちゃったのね



邪魔するつもりはない。

ただそばで子どもたちを見送りたいのだ




 話が通じたのかわからないが、後ろで柵が閉められる。



 その外側にファーマやみつきたちも集まってきた。だがおれたちに気を遣っているのか、おとなしく佇んでいる。



 おれはイザベラと共に子どもたちのもとへ近づいた。



お父さん……


お母さん……



どうした?



寂しくなってきちゃった、ニャウ


あたしも……寂しい!



ふたりとも、おいで




 子どもたちと顔を寄せ合い、舌で毛を撫でて気分を落ち着かせる。



 愛しい者達に触れているうちに、おれの心は穏やかさを取り戻してきた。



もうこうしてお父さんたちと触れ合えないんだ……


ずっとずっと、お父さんとお母さんにくっついていたい、ニャウ



昨日は呑気に眠っていたのに……、

やっぱり甘えん坊ね



不安になると、甘えたくなるものだ。

もし心配事があるなら、いまのうちにはき出しておくといい



うん、そうだね。

お父さんの言うとおりかも……


最初は楽しい事とか想像してたのに、不安でいっぱいになっちゃってさ……


やっぱり知らないところへ旅立つのって、ちょっと怖い……



行った先で捨てられたりしないか、心配……ニャウ



人に捨てられたのが原因で、野良猫になるコもいるくらいだものね



そんなふうに野良猫に逆戻りするのは、嫌すぎるよぉ~~!


ねぇ、人間にかわいがられるためには、どうしたらいいの?



ぼくも気になる。

どうすればいい、ニャウ?




 差し迫ったような表情の子どもたち。



 その心の重荷がなくなるよう、おれはできるだけ柔らかい表情を意識して答える。



どうもしなくていい。

おまえたちは、何もしなくていいんだ



なにも?



そうだ。

ここで暮らしている猫たちのように、自由にしていればいい



でも、しっかりしてなきゃダメでしょ?


よく知らない人と一緒に暮らすんだし、無警戒で自由にしてばかりいるのは無理だよ



もちろん警戒するのは当然だし、必要なことだ


しかし、人のためにしっかりしていようなどと気張ることはない


ただゆったりとして、自分たちのことだけを気にしていればいいのだ



じゃあ……人に合わせなくてもいいの、ニャウ?



合わせる必要などないさ。

そういうことは、暮らしに慣れて余裕が持てるようになってから気にかければいい


おまえたちは、何も頑張る必要はないのだ。

ただこの家で教わった、最低限のことだけを守っていれば充分なのだから



最低限のことって、トイレの不始末とか、壁に爪とぎしないとか?



うむ。あとは人間がどうにかしてくれる



そうかなぁ?



そうだとも。

人間にもおれたちのように愛情はあって、おまえたちのことを大事にしてくれる


そういう良心的な人間を里親を選んだのだから、気に病むことはない



大丈夫よ。メデア、イソルダ。

自信を持って


あなたたちの飼い主となる里親にも、不安な気持ちはあるはずよ


だけど、あなたたちを迎え入れてその喜びを知れば、あのときの不安はなんだったのだろうって、きっと笑い飛ばせるようになると思うの


あなたたちの不安は、それと同じよ



ウニャウ……



かつてオーハラは言っていた。

動物は、〝人間にとって安らぎの希望であり心の()りどころ〟だと


おまえたちなら、きっとそういう存在になれるはずだ



うん、わかった


お父さんの言うことを信じる、ニャウ



心配なのは一時(いっとき)だけだ。

必ず、うまくいく


なにせおまえたちの可愛さは、無敵なのだからな!



あはは! 


ありがとう、お父さん、お母さん。

おかげで気持ちが落ち着いてきたよ



無理はせず、自由に。

気張りすぎはよくない、ニャウ




 ようやくメデアとイソルダの顔に笑みが戻る。



 いつもと変わらぬ笑顔なはずなのに、やけに尊く見えるのはなぜだろう……?



 毎日見られた笑顔が、遠くに行ってしまうからだろうか。



 この時間が、永遠に心に刻みつけられる瞬間だからだろうか。



姉弟(きょうだい)仲良くね。

風邪に気をつけるのよ



お父さんと、お母さんもね……!


元気でいてほしい、ニャウ……!



メデア……イソルダ……!




 おれは居ても立ってもいられず、子どもたちに体を寄せて頬ずりをした。






 やわらかな毛に顔を当て、深く息を吸いこむ。



 穏やかな日射しのように、やさしくてふわっとする香り……。



 そのニオイを忘れたくはなかった。



 これっきり二度と会えなくなるわけではない。



 そう心に言い聞かせても、胸が絞めつけられるように苦しくなる。





 どんなにあがいても、家族全員でいた日々は戻らないのだ。






 ――さよなら、愛しい子どもたち。






 まだ教えたいこと、語りたいことがたくさんある気がしてならないが、みんなで過ごせる時間はこれでおしまいだ。




元気でな。

どうか幸せに……!

長生きするんだぞ!



お父さん……!


ぼくらのために一生懸命になってくれて……ありがとう!



感謝をするのは、おれのほうだ……


ふたりとも、おれと一緒にいてくれて……ありがとう!




 それから先の記憶はボンヤリしている。



 オーハラは、子どもたちをキャリーバッグに入れようとしたけれど、手こずってばかりだった。



 彼女の瞳は涙で一杯になっていて、あまり前が見えていないようだった。




 おれはしばらくイザベラと身を寄せ合ったまま、一心に子どもたちの幸福な未来を願っていた。




 その情景を思い描くと、悲しみに滲んでしまいそうな視界に、ふっと明るい光が差すような気がした。














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登場人物紹介

紅 

ねこねこファイアー組の元ボス猫。

亡き友人であり部下でもあったオス猫に、妻のイザベラとその子どもたちを託され、結婚することになった。

夫婦仲は良好で近々子ども産まれる予定だが、生活は苦しく、落ち着ける居場所を求めている。

ワケあって住処を離れることとなったので、家族と共に町へ向かうが……。


イザベラ 

紅の妻。メデアとイソルダの母猫。

メデアとイソルダは、亡き夫とのあいだにできた子ども。亡き夫はねこねこファイアー組の幹部のひとりだったが、ニャニャ丸組との抗争により深手を負い、他界した。

知性的な猫であり、ドアノブに手を伸ばして開けることもできる。

メデア 

紅夫婦の娘。

生まれたての頃は甘えん坊だった。弟に冷めたツッコミを入れることが多いが、逆にからかわれることも。

紅が父猫になるまではボスとして遠巻きに眺めるだけだったので、なかなか同居になじめなかったが、共に行動することで次第に心をひらいてゆく。

イソルダ 

紅夫婦の息子。

幼いころから体つきが丸く、運動嫌いが拍車をかけ、筋肉量の少ない体形はぷよんとしている。

スコティッシュフォールドのミックスだった父猫の影響を受け、片方だけ折れ耳。

口癖に「ニャウ」を多用する。調子に乗って姉のメデアをからかい、反撃を浴びることもしばしば。

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