第155話 みんなが幸せになる道
文字数 3,462文字
おれは決意した。
猫オタにヒスイを譲ろうと思う。
しかし、その気持ちはまだ猫オタには伝わっていない。
遊びに興じる子どもたちと、その輪を操る猫オタを見守っていると、下の階からオーハラとトラヒコがやって来た。
井伏くん、子猫たちと遊んでいたのね。急に神猫様たちと2階へ上がっていったから、何事かと思ったわ
いやいや、いいんだよ。
ヒスイをお迎えしたいのなら、いまのうちに仲良くなっておかないとだよね
神猫様は俺が里親になることに反対で、ご立腹だったんじゃ……?
けど、井伏くんが子どもの里親になるから嫌がっていたわけじゃないと思うけどなぁ
わたしもそう思うわ。
ただのカンでしかないけれど、神猫様はもっと心の広い持ち主な気がする……
まったく「里親」だの「嫌」だのと……、
単語しかわからんが、猫オタはまだグズっているのか?
そうねぇ、彼なりに気にしているみたいよ。
あなたが怒っているんじゃないかって
おれたちの話を耳にして、ヒスイが事情を察したのか、神妙な顔で歩み寄ってくる。
ミャアミャア、
猫オタはあたしの里親になるのミャア?
フミャア~。
パパとママとお別れになるのは、嫌ミャア……
もしかすると子より親のほうが、永遠に我が子と一緒にいたいと思うものなのかもしれない……。
ふむ。
猫オタなら毎日構ってくれて、しっかり遊んでくれると思うぞ
まぁ少々バカなところもあるがな、根は純粋でいいヤツだ
おまえが猫オタの頭をかじったときも、アイツは怒らなかっただろう?
ただ猫の見た目だけをかわいいと言うなら誰でもできるが、自分に害が及んだときに優しく受け止められる人間はそう多くはない
ヒスイのようなヤンチャな子には、寛容な人間が最もふさわしいとおれは思う
彼は裕福ではないけれど、あなたに良い思いをさせようと、日々努力してくれるんじゃないかしら?
おれたちがアレコレ言うより、おまえ自身が猫オタと親しくなったほうが実感も深まるだろう
まぁ、いまは好きなように遊びなさい。
少しくらいなら、暴れまわってもいいから
ヒスイは身をひるがえして、猫オタのもとへ突進していく。
トラ柄の小さな体がかわいらしくぴょんぴょん跳ねて、ネコじゃらしに跳びこんだ。
おぉ、ナイスタックル!
さすがヒスイ様、大胆不敵ですね!
言いながら猫オタは、ヒスイに奪われそうになったネコじゃらしをヒョイと振り上げる。
突如ヒスイは獲物から狙いを変えた。
ネコじゃらしの持ち主である猫オタの手の甲に、噛みつき攻撃を放つ。
反動でのけぞる猫オタ。
その悲鳴に驚き、他の子どもたちはビクリとし、人々は目を見開く。
イザベラが注意しても、ヒスイは牙を立てたままだった。
元来子どもは自由奔放なので、ダメと言われても自重しない。だからすぐやめるようにしつけなくてはならない。
そのしつけがうまくいかず、飼い主との関係に亀裂が生じることさえあるという。
はたして猫オタに、猫の持つ攻撃性を巧みにいなせるかどうか――
ヒスイに噛みつかれた猫オタ。
彼は攻撃を受けたままの状態でありながら、冷静に対処した。
決して強引に首根を掴み上げたり、大声でギャンギャン叱りつけたりはしない。
ヒスイの口にネコじゃらしの穂先をあてがう。
手よりも好ましい獲物を与えられ、ヒスイは猫オタを攻撃対象から外した。
ヒスイの興味が再びネコじゃらしへと移る。
その様子を確認すると、猫オタは立ち上がり、スッとその場から離れていく。
遊びが中断された――!
それに気づくとヒスイはネコじゃらしを噛むのをやめ、キョトンとした表情を浮かべた。
ミヌ、カンタ、まれは、ヒスイに向かって不満をこぼす。
フミャア~……。
まさかこんなことになるとは思わなかったミャア
いやぁ、頭ではわかっていても、ついカッとなってしまうこともあるからね~
動物を育てることは、忍耐力を鍛えるといっても過言じゃないわ
ねぇ、井伏くん。
井伏くんならきっと大丈夫だろうけど、猫を引き取る際の注意点について、念のため伝えておくわね
猫を引き取ったら、毎日必ず世話をするって、約束して
あなたには学生生活もあって、やがては社会人生活に突入する。
けれど、どれだけ忙しくても、猫の世話にお休みの日はない
たとえ体調が悪かろうと、猫の面倒は見る。
それが無理なら、代わりに世話を頼める人を見つける
とくにエサやり、トイレ清掃の2つは、何があっても必ず毎日やり通すこと。
以上のことを、ちゃんと聞いてもらえるかしら?
猫オタは威勢よく返事をして、床に落ちたままのネコじゃらしを拾いに戻った。
その場にしゃがみ込み、遠巻きに彼を見ているヒスイに微笑みかける。
ヒスイ様。
俺は飼い主として未熟ですが、ヒスイ様のために精一杯やれることはやっていきます
おまえのために頑張るから、いつか一緒に暮らしてくれと言っているのだろう
ふぅん、怒ってないんだ。
……ちょっと、安心したミャア
さっき、つい猫オタの手を噛んじゃったあと、怒られるかと思ったミャア
いままでは、図体がデカイだけの最弱の人って思ってたけど、違ったみたいミャア
そうか。
おまえのその気持ちを知ったら、猫オタはさぞ喜ぶだろう
言葉を交わすことができない代わりに、猫オタの近くに行って、噛んだ手を舐めてやりなさい
ヒスイは猫オタのそばに行くと、彼の手の甲に舌を当て、そっと舐めた。
ヒスイとの仲が深まれば、
抱っこ・鼻チュー・スリスリ・猫吸い・添い寝、
あらゆる触れ合いを堪能できるようになるのだ!
だが、いまのおまえでは相思相愛には程遠い!
せいぜいヒスイとの親密度を上げることだな!
なんだかわからないけど、神猫様に励まされている気がする……っ!
だからヒスイのために、もっともっと一生懸命になれ!
なにせ、かわいい子どもを手放さなきゃならないんだから
あなたと同じように、突然火がついたように怒りが沸くこともあるわ
そうか……!
おれたちの気持ちは、同じだったのだな!
ええ。
いつだって、我が子を愛するふたりの気持ちは、ひとつよ!
おれはイザベラと微笑み合った。
いつかおれのもとから、子どもたち全員がいなくなる日が来るのだろう。
メデアとイソルダのときのように、寂しくて辛い日々を送ることになるかもしれない。
けれども、家族が離れても、みんなが幸せになれるのなら――
たとえ辛くとも――
前向きに受け入れられる気がする。
一番大事なのは、おれだけの幸せじゃない。
猫も、人も、みんなが幸福になれることだ。
愛しい子どもたち。
そして人間たち。
どちらも幸福につつまれる最良の道を歩んでほしい。
そのときになって初めて、この選択が間違いではなかったと心から安堵できるだろうから――。
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