第26話:ポルトガル観光2

文字数 2,665文字

 津波による死者1万人を含む、5万5千人から6万2千人が死亡した。推定されるマグニチュード8.5から9.0と言われている。震源はサン・ヴィセンテ岬の西南西約200キロメートルと推定されている。この震災は、近代の扉を開いたとされ、国家が直後の対応と復興に責任を持った最初の近代的災害といわれ ヨーロッパ社会に多岐に影響を与え新しい科学や技術の数々を誕生させた。

 何か、マグニチュード8.5から9.0と言われているで、津波だけで1万人が死亡と書いてあっても、にわかに信じられない。当時リスボンは27万5千人の人口を数えたが、最終的にで9万人が死亡した。リスボンに住む人の3人に1人が亡くなったことになる。リスボンの建物の85%は破壊され、宮殿や図書館、16世紀の独特のマヌエル様式の建築も失われた。

 それにもリスボン大聖堂が耐えたのだから、信じられないほどの堅牢さのだろう。テージョ川沿いに建っていた現在のコメルシオ広場に建っていたリベイラ宮殿も地震と津波で崩れ、7万巻の書物やティツィアーノ、ルーベンス、コレッジョらの絵画も失われた。ヴァスコ・ダ・ガマら大航海時代初期の航海者たちが残した詳細な記録も、王立文書館の建物とともに失われた。

 小山田夫妻は、自分達が、いかに勉強していなかったのかと、反省せざるを得なかった。リスボン大聖堂の正面入り口上部のきれいなバラ窓があるが、そこの、バラ窓の下にあるステンドグラスにはキリストと12使徒が描かれている。全体はバロック様式で建てられている。リスボン大聖堂、内部にも美しいアズレージョがあった。またいくつも有名な宗教画、彫刻があり写真に収めてきた。

 その後、近くのカフェでパンと珈琲で簡単な昼食を食べが。その後、ケーブルカーのグロリア線で高台に行き散策していると、このサンロケ教会にたどり着いた。「サン・ロケ『聖ロクス』」は信者を黒死病から守ってくれると信じられており、ジョアン3世は礼拝堂のそばに黒死病で亡くなった人の墓を造らせた。1553年、日本ではフランシスコ・ザビエルが所属していたことで知られるイエズス会がサン・ロケ礼拝堂を所有。

 イタリア・バロック様式の教会に建て替えました。イエズス会の本部となったサン・ロケ教会から、布教を命じられた宣教師たちが黄金の国「ジパング」へと旅立っていったのです。1584年には、苦難の航海を経てリスボンにたどり着いた天正遣欧使節団が、宿舎として1ヵ月間ほどこの教会に滞在しました。サン・ロケ教会は、日本とポルトガルの交流史を語るうえで欠かせない存在なのです。

 ヨーロッパの教会としては珍しく、アーチのない天井をもつ、講堂のようなシンプルな構造の教会内部。入場料も無料であり入る事にした。外観は割と地味な印象でしたが、内部は驚くほどの豪華さでした。左右の壁に並ぶ礼拝堂には精密な彫刻が無数に施されていた。サンジョバンバプティスタ礼拝堂はバロック建築の見事な装飾でした。教会内の撮影はフラッシュ禁止でした。

 その次に、景色の美しいサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台へ向かった。この展望台に向かう坂道にはケーブルカーのグロリア線が走っています。ペイントされたカラフルなケーブルカーもリスボン名物です。ここから見るリスボン市街は、ポルトラル独特の赤茶色の屋根と白壁の家々が見事だった。見物を終えると、かなり疲れたので、ホテルに戻って16時から1時間ほど昼寝をした。

 その後、ホテル近くのカフェでいわし料理の夕食を食べて、ホテルに戻った。明日、8月29日、いよいよ、ポルトガル・アゲタのアンブレラ・フェスタに行く日だ。荷物を軽くして、ホテルを7時に出てからバイシャ・シアード駅へ行き、サンタ・アポロニア駅で特急電車に乗り変えて2時間で10時前にアベイロ駅に到着し、降りて、アゲタ行きの列車を待ち、11時前にアゲタに到着した。

 しかし、意外にも混んでいないと言うより、閑散としている。しかし街の通りに出るとアーケードのように、おびただしい数のカラフルな傘が2階の天井の高さに吊り下げられていた。その素敵な風景を撮らない手はないと、写真を撮りなが、街を歩き回った。いくつもの通りが傘の大群に襲われたようだ。透明な傘に模様がついたものや、赤、青、黄色緑、ピンク、みかん色とカラフルな傘の襲来したアーケード。

 首は疲れる、足は棒のようになり、たまらずカフェに逃げ込んだ。そこで飲んだアイスコーヒーは、いままで、味わったほどない、くらい旨かった。しかし1時間足らずで、十分堪能したと言うか飽きた。そのカフェの女性が英語がわかるので、アゲタ、意外に、近くに面白いところはないかと聞くと、それなら、コスタノバが面白いと教えてくれた。何でも、コスタノバの家のほとんど総てが、ストライプ模様だというのだ。

 そこで行き方を聞くと、アゲタからアベイロに戻り、アベイロからコスタノバ行きのバスが出ていると教えてくれた。多分30分くらい出いくはずよと言った。彼女に、お礼を言った、すると、あなた方、もしかして、日本人と聞かれ、そうだと言うと、リスボンのサン・ロケ見学したかと聞かれ、もちろん見て来たというと、ポルトガルと日本で昔からの付き合いよねと、笑った。

 そして、カフェを出て、電車でアベイロに行き、コスタノバ行きのバス乗り場を聞き、少し待って、バスに乗ってコスタノバに12時半についた。すると、白地に赤、青、緑、紺の縦や横のストライプの家が整然と立ち並んでいた。興奮しながら、写真を撮りまくった。30分位して、近くのカフェに入り、昼食を取った。その時に、小山田聡が、なぜ、ストライプの家にしてるのかと質問した。

 すると、ウェイトレスさんが、良い質問ねと笑った。なぜと、もう一度聞くと、もったいぶったように、語りはじめた。コスタノバは海辺の漁師町で、ちょうど、この海あたりで暖流と寒流がぶつかり、濃い霧が発生する。霧で家がわからなくなると言う事が起こったわけ。そこで、直ぐに見分けがつくように派手な色のストライプで、遠くからも、すぐ自分の家がわかるようにストライプの家が多くなったと説明してくれた。

 なる程ねと小山田夫妻が納得するとウェイトレスさんが、良い旅してねと言ってくれた。礼を言って、精算して、再び、アベイロに16時半に戻り、今度は、ポルトへ向かった。18時にポルト・カンパニーャ駅に到着した。そこから地下鉄に乗り換えサン・ベント駅に着き、徒歩5分でホテルに入った。
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