第3話:小山田の結婚と娘誕生と課長昇進

文字数 2,989文字

 小山田は、正直に漁師をしていると話した。年齢31歳、漁師をする傍ら、日本株投資をして、現在の資産は2150万円と言うと、驚いた様子だった。これを聞いた、兼高さんのお父さんが、漁師では、そんなに、稼げないだろうと言った。そこで、漁師13年で、蓄えた金は500万円で、残りの1650万円は、投資で稼いだと答えた。

 それを聞いて、お父さんが、実は、私も株投資歴25年で、儲かったり、損したりで、トータル1000万円のプラスだと笑いながら言った。君は、投資のセンスがある様だねと、急に明るい顔になった。それで、今後の目標金額はと聞かれ、最終的に1億円と答えると、それは頼もしい、頑張ってくれと言い、それだけあれば、結婚してもかまわないと言ってくれた。お母さんも娘を宜しくと言ってくれた。

 すると、兼高良江さんが、大粒の涙をながして、ありがとうと、両親に言い、深々と頭を下げた。お父さんが、しっかり頑張れよと言い、お母さんが体に気をつけるのだよと、言うと、声を上げて泣いた。その光景を見ていた、御両親の目にも涙が浮かんでいた。そして、小山田が、きっと幸せにして、可愛い子供を作りますので、その時は、宜しくお願いしますと挨拶して、兼高家を後にした。

 その後、結婚式は、10月10日にしようとなり、岡山の結婚式場に、小山田家の方から15人と兼高家から20人の計35人で結婚式を開くことになり予約を入れた。そして、梅雨が明けて夏が来て、お盆が過ぎた。今年の9月は、下旬から雨が多く、10月10日の天気予報も雨だった。やがて10月10日、朝、雨降りだった。結婚式は、11時から、披露宴が13時からだった。

 そこで、良江さんは、6時に家を出て、髪を結ってもらい、9時前に結婚式場について、和装だったので着付けをしてもらい、10時過ぎには、新郎も新婦も結婚式の支度ができた。そして神前結婚式が始まり、形式通り、1時間ほどで、終了した。その後、ホテルの披露宴会場に入場した。たくさんの拍手に迎えられ、多くのフラッシュとカメラのシャッターの音が響いた。

 披露宴には、両親を始め、友人の真崎夫妻や漁師仲間が来てくれた。木下家でも家族、親戚、仕事の関係者などが来ていた。そして、余興、歌が披露されて、宴もたけなわになり、両親からの言葉、新郎新婦のスピーチでは、感動の涙で、言葉がつまるシーンも感動的だった。そうして14時には、全て終了した。その時には、真崎は、以前住んでいた、自分で手直しした家を出て、新しい2DKのアパートに引っ越した。

 翌日から3泊4日で、京都、奈良、大阪、神戸を回ってくる新婚旅行に出かけた。新婚旅行から帰ってきて、奥さんの良江さんは、実家の兼高宝飾店で働きに行き、小山田は、変わらず、漁師を続けた。しかし生活のリズムは、変わらず、友人の真崎と麻雀したりしていたが、競艇は、行かなくなった。その後1982年を迎えた。初詣でに行き、早く子供が欲しいと祈願していた。

 すると、直ぐに願いが叶い、2月20日、奥さんが体調が悪いと言い産婦人科へ行くと、おめでたですと言われ、出産予定日が1982年8月30日といわれた。そして、4月になり、春本番を迎え、5月の連休を過ぎると、奥さんのお腹が、急に大きくなった。その後に検診で、もしかしたら双子かも知れないと言われた。7月に入ると、双子の可能性が高いと言われ、8月30日、双子の男の子を出産した。

 数日、子供の名前を考えて、小山田健一、健二と名付けた。出産後、小山田の実の母が来てくれて、面倒を見てくれた。小山田に、双子の男の子が誕生したと聞いた、船の頭領が、小山田に、船に乗らなくて良いから、魚の運搬など、陸の仕事をしろと言ってくれ、早朝の仕事なり、仕事が終わると直ぐに家に帰り、家事の手伝いをするようになった。

 そして、仕事と家事に忙しくしているうちに1983年があけた。その後も船に乗ることもなく、船からの荷下ろしと、トラックで魚を運んだりする、港の市場の仕事を始めると小山田の明るい性格ときちんとした仕事と、愛想の素さで人気者になって、多くの仕事をもらった。そのうち、競りの見習いをしろと言われて、1年間、先輩に指導してもらい、1984年から競りの仕事も任されるようになった。

 すると、早朝の仕事が中心で、昼間、家にいることができて、子供の面倒を見ることもでき、非常に助かった。しかし、夜は21時に寝て、朝3時に起きる生活となった。疲れがたまると、昼寝するときもあるほど、ハードワークだった。充実した日を過ごしていると、日のたつのも早く感じられ、あっという間に1984年となった。そして冬が終わり、3月、桜が咲き始めた。

 そんな日の昼過ぎ、小山田の奥さんが、体調が悪いと言い、産婦人科へ行くと、おめでただと言われ、出産予定日が1984年11月28日と告げられた。その頃は、港の市場で競りの仕事をしていた。そして、地元の漁業組合の組合長や幹部にも、可愛がられて、飲み会にも呼ばれるようになった。やがて、梅雨となり、空けると夏、奥さんのお腹も大きくなり、9月、朝晩涼しくなってきた。

 そして11月26日、近くの産婦人科病院に入院して、1984年11月28日早朝、目の大きな可愛い、女の子を出産した。病院を退院して、家に帰ると、双子のお兄ちゃんが、女の赤ちゃんを見て、可愛いと、頭なでてくれた。すると、彼女は、うれしそうに笑顔になった。そして、また、小山田の実の母が手伝いに来てくれた。その後、女の子の名前を小山田姫子と名付けた。

 やがて1985年があけた。初詣ででは、子供達の健康を祈願して来た。1985年、競りをする傍ら、地元の漁場組合に入ってくれないかと言われ了解すると、翌月から給料が、船に乗っていたときよりも多くなった。そして、早朝の出港の手伝いと、船が戻って来たときの荷下ろし手伝いや競りの仕事となり、昼間は、比較的時間ができたので、家に帰り、子供の面倒を見られた。

 その後も多くの仕事を掛け持ちして、忙しくしていると、日が過ぎるのが早く、いつの間にか1985年も暮れになり、1986年となった、1986年、冬が過ぎ、春を迎え、桜が咲き、暖かくなり、梅雨を迎え、空けると夏となり、7,8、9月には、しけの日が増えて、台風が3つ、接近して、漁に出られない日が続いた。仕事がないと、給料は減り、
漁師、漁協の連中も気が立っていた。

 そして喧嘩し始めると、小山田が、そん長男:健一、次男;健二なにとんがるなよ、海と女房の機嫌は、ままならないからとか、言うと、いらだった男達も、機嫌を直した。そんな姿を見ていた、漁業組合の組合長が、小山田を呼んで、お前をこの組合の課長に任命するから、漁師や市場の連中の相談相手になってやってくれと頼まれた。それ話を聞いて、そりゃありがたい、学のない俺なんかが課長になって良いのかと聞いた。

 それに対し、頭の良い奴は、いるが、性格の良い奴は、意外と少ないのだよと、組合長が、小山田の肩をたたいた。そして翌月から、課長手当が出て、給料が、さらに上がった。そうしているうちに1987年が空けた。その頃になると、小山田に相談事が増えて、その度に、真剣に当事者と一緒になって考えてあげる事によって、信頼を勝ち得てきた。
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