第7話:バブル崩壊と株価の下落と天候不順

文字数 2,732文字

 その日と翌日の2日間、海は、荒れていて、漁は休みになった。やがて、秋風が吹き始め、秋が到来し11月、12月となった。やがて1990年が終わり1991年を迎えた。この頃、1989年5月からの日本銀行による公定歩合を引き上げにより、90年末には、公定歩合6%、過去最高の金利となった。そして 社会問題化したバブルを潰したことで、三重野康日銀副総裁「当時」は「平成の鬼平」と称えられた。

 株価の下落は1990年1月から始まった。日経平均株価は1990年10月末に2万5000円台に下落。こうした中で、株価の下落に続いて地価の下落が始まった。公示地価は株価の下落から1年遅れの1991年に下落に転じ、住宅地で前年比ー5.6%、商業地でー4.0%と17年ぶりの下落を記録してバブルは崩壊した。

 1990年2月21日の日経平均価格が35734円、-1161円、-3.1%、2月26日の日経平均価格が33322円、-1569円、-4.5%、3月19日の日経平均価格が32623円、-1353円、-4.1%、4月2日の日経平均価格が28002円、-1978円、-6.6%、4月17日の日経平均価格が19009円、-1426円、-7.0%と下げた。

 日経平均株価が、1990年2月21日35734円から9月26日22251円の約7ヶ月の間に、37.7%も下げた事になる。つまり、日経平均株価の下げから見ると完全にバブル崩壊したことがわかる。しかし、土地の価格が下がり始めたという実感はなく、今迄みたいに、土地価格の話題がなくなった程度だった。

 バブルの崩壊は、金融機関からお金を借りて株や土地に投資した企業や個人に多額の損失を与えた。銀行から資金を借りてまで投資した企業や個人は、借金の返済を迫られるが、担保としていた自分の所有する土地や株を売っても、バブル崩壊で価格が下がっているので 「例えば、10億の土地が5億になったら、売ってもお金が作れない。」、返済するための資金にならない。だから銀行に借金が返せなくなる。

 そして銀行からみれば、回収できなくなったお金が不良債権。積極的に融資を行っていた金融機関の多くは、貸し出し先が倒産したり、経営悪化に陥り、お金を返してもらえなくなりして、巨額の不良債権を抱え込んだ。

 このバブル崩壊で土地投資のため銀行をはじめとする金融機関に大金を借りた。そして土地を買いあさった、バブル亡者が、一気に凋落し、多額の借金の取り立てを受けた。その結果、ある者は、自己破産したり、ひどい場合は、飛び込み、首つり自殺する者まで大勢現れた。しかし、日本人の特性なのか、そう言う報道は、ほとんど出ることなく、闇に葬り去られた。

 こんな世の中の流れに対して、小山田は、昔と変わらず、良い天気の日には、漁に出て魚を捕って、海が荒れると、漁を休んで、仲間と麻雀したり、飲みに言ったりして過ごしていた。こう言う姿を見ていた、船の持ち主の漁師の総元締めも、土地投資をして、多くの借金を抱えて、目の色を変えて、金策に走っていた。1991年の気候は、昨年と同じ様に、夏の低温、長雨と日照不足だった。

 5月以降は前線が本州南岸付近に停滞しやすく、九州地方を中心に西日本では曇雨天が多かった。九州地方から関東甲信地方では平年より2週間程、早く梅雨に入った。7月は上旬まで前線が本州南岸上に停滞。このため5月から7月中旬まで九州・四国・中国地方では長雨、日照不足が続いた。7月21日頃には中国・近畿・東海地方で梅雨が明けた。

 9月中旬から10月には秋雨前線が本州南岸に停滞し、曇雨天が続いた。この年、大きな台風が日本を襲った。1991年9月23日にはフィリピンの東海上で中心気圧925ヘクトパスカル、最大風速50メートル/秒の大型で非常に強い台風となった。瀬戸内海沿岸では高潮被害が発生し、広島県では風害と共に重要文化財である厳島神社の能舞台が倒壊したり、屋根が吹き飛んだ。

 また多くの世帯でテレビアンテナが倒れ、屋根が飛ぶなど大きな被害が出た。さらには吹き返しの風も強く、秒速60メートルの風が吹き荒れたことから沿岸より40キロメートル先の内陸にかけて電線に海水がかかり、降雨がほとんどなかったことから塩害が発生し、長期間にわたり停電になる地域があった。その後、中国電力は電柱に塩害対策を行った。

 1991年、夏になっても、秋になっても、海は荒れ、夏の低温、長雨と日照不足は変わらなかった。そのため漁に出られない日が多く、初めのうちは、気にせず、麻雀と飲み屋へ行って騒いだりしていたが、あまりの天候不良と漁獲量の少なさで、小山田は、気にしなくても、仲間の漁師の懐具合が悪くなりアルバイトや建築工事、大きな工場の季節労働者として働き生活費を稼いだ。

 それでも1991年3月から2年7ケ月、バブル崩壊による不況は継続し続けた。そうして、1992年となった。1992年8月19日も漁から帰り、ラジオ短波で、その日の後場、ソニー株の値動きを聞き、3400円の指値で1万株買いを指示すると、3400万円で購入でき、投資残金が3900万円となり、500万円が預金として残った。

 しかし今年は、漁に出られる日が少なく預金と取り崩して生活費に充てざるをえなかった。そこで投資残金から400万円を普通預金に移し900万円を使える様に、投資残金が3000万円となった。1995年3月に、小山田の双子の健一と健二が、小学校を卒業して、中学校へ入学し、学生服とカバン、靴をかってやり4月から中学校に登校し始めた。

 健一と健二は、サッカーが好きで、父に買ってもらったサッカーシューズとボールで、土日は、家の近くの公園で、2人でサッカーの練習をしていた。中学にサッカー部はなく、陸上部に入って、重力と、スピードをつける練習をしていた。勉強面では、健一と健二とも算数、理科が得意であり、問題も直ぐ解けた。しかし、国語と社会は覚える事が多く、勉強は、主に、その記憶にあてていた。

 その他、母に、本を読みなさいと言われ、近くの図書館で本を読んで、夜、その感想文を原稿用紙に書かせた。勉強の監督は、ほとんど、母が、やっていて、かなり厳しいのに、父は、驚いたくらいだった。妹の姫子は、幼い頃から、絵を描いたり、絵本を読んだりするのが好きで、よく絵を描いたり、母の好きな、洋楽を聴いていた。

 そして、父が、小さな子供用のピアノを与えると、土、日、休日には、飽きずに、ずーっと、そのピアノを弾いていた。そして、曲を弾けるようになると、兄、父、母を問わず、暇な人を見つけては聞いてと言って、そのピアノを演奏していた。
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