第6:小山田、バブル期の株で儲け、ギャンブルで命の洗濯

文字数 2,745文字

 小山田聡は、以上の様に、1年中、船に乗って、魚種の豊富な岡山の海で漁師をやっている。しかし、海が荒れると、漁に出られず、漁師仲間で、賭け麻雀したり、酒を飲んだりして、過ごす。だから、漁師仲間の結束は強い。漁師は、「板子一枚下は地獄」と言われるように、きつい仕事で、海が荒れてるときに、無理して漁に行き、船が転覆、または、海に飲み込まれて死ぬ漁師もいる程、危険な商売なのだ。

 なんて、理由をつけては、小山田は、児島のボートレース場、玉野競輪場、街の麻雀荘に出かけていた。しかし、ギャンブルターもベテランになると、引き際を心得ていて、決して無理をしない。勝負事の負けは、必ず、自分の小遣いの範囲内におさめる、これが、やとわれ貧乏漁師にとっての鉄則である。これを守れるから長く、ギャンブルをつづけられるのである。

 その他、漁師の良い所は、身が欠けたり、傷ついだ、規格より小さい魚で売り物にならない魚を無料でももらえる事。それを持ち帰って、家族の食料にしたり、その魚と、近所の仲の良い百姓と、米や、野菜、果物と物々交換する事。これによって、家族の食費を切り詰められる。つまり、贅沢しなければ、食費が、極めて安くなることだった。その上、

 小山田は、仲間のギャンブラーが、儲けたときには、ヨイショが上手で、ご馳走にありついたり、酒を飲ませてもらったりした。つまり、世渡り上手だった。人なつっこい笑顔を武器に、男女問わず、人に好かれ、助けてあげたい気にさせる、生来、持って生まれた、本能のようなものが備わっていた。そのため、多くの女友達、男友達、先輩、長老を味方につけていた。

 1988年を迎えると、冬の寒さが厳しく、1月は、漁に出られない日々が続いた。雨やみぞれが降り、小山田は、仲間達と麻雀を楽しんで、その後、近くの安いバーへ行って、飲んで、その店の手伝いに来ていた若い女と猥談「わいだん」をしてからかっていた。今年は、冬の漁は、イイダコが多く捕れて、値が下がるので、小さかったり、足が欠けてるイイダコは、自宅に持ち帰った。

 イイダコは、たこ飯にしたり、煮付けたり、串焼きにしたり、茹でたイイダコをコチジャン、豆板醤、オーリーブオイルと小さく切ったニンニクと炒めたりして食べた。また、売り物にならない小さな牡蠣「かき」も「かき飯」にして食べたりした。その他、「タチガイ」もとれるが、これは、多くとれないので、漁師の口に入いることは少なく、料理屋に高く買ってもらう事が多かった。

 やがて春を迎え、3月を迎えると、イカナゴが多くとれるが、値段が安く、儲けが少ない。イカナゴの次、5月頃からよくとれるのが「サワラ『鰆』」。一般的に、冬に漁獲される「寒ザワラ」が身が締まり、脂が乗っておいしいと言われているが、岡山県では産卵のために瀬戸内海に入ってくる5月頃、真子や白子と一緒に食べる文化があることから、5月頃が旬とされている。

その後、6月は下旬に梅雨前線の活動が活発化し、西日本を中心にかなりの降水があり、月間日照時間が平年を下回った地域が多かった。7月は中・下旬を中心にオホーツク海高気圧の勢力が強く、北海道~関東地方の太平洋側を中心に低温が持続した。この期間は梅雨前線の活動が活発で大雨に見舞われ、四国地方の大部分の地域で日照不足になった。それ以降も日照不足と低温が続いた。

 この頃の日本はバブル景気で、土地の値段が高騰していた。そんな中、1988年9月19日に、昭和天皇が吐血した。それから1989年2月24日の大喪の礼頃まで自粛ムードとなった。日本の富裕層、土地持ちは、バブルに酔いしれ、大儲けした金をハワイの別荘購入に充てたり、優雅な暮らしを謳歌「おうか」していた。一方、この異常な地価の高騰に対する国民の不満が鬱積「うっせき」してきた。

 その時の宮沢政権は「年収の5倍でマイホームを買える」政策を掲げていたが、それは絵空事にさえなっていた。地価を下げ、バブルを収束させることは一種の社会正義にさえなっていた。そうしているうちに1988年が終わり、1989年を迎えた。昭和64年「1989年」1月7日午前6時33分、昭和天皇のご容体が急変し、ご逝去された。そして、翌1月8日、平成がスタートした。

 平成最初の日、平成元年「1989年」1月8日は、ほぼ全国的に雨となりました。まさに、天皇陛下の崩御の涙雨だと、言われた。その後、天皇陛下の崩御により、多くの催し物が中止され、多くの日本国民が、喪に服した。そのうえ、経済活動、バブル気分も下り坂を転げ落ち始めた。加えて、バブルを収束させるための日本銀行が利上げを、1989年5月から1年半で5回の利上げに踏み切り、公定歩合を6%まで押し上げた。

 一方、小山田家では、1989年4月から双子の男の子、長男の健一、次男の健二が、地元の小学校へ入学し集団登校を始めた。最初、2人とも、不安で、学校へ行くのを嫌がっていた。しかし1ヶ月も過ぎると、同級生の友人もでき、新しく買ったランドセルと、運動靴と洋服を着て、毎朝、学校へ通った。6月の梅雨入り後から7月に掛けて、オホーツク海高気圧の影響で低温・日照不足が度重なった。

 また、北・東日本で水稲などの生育が遅れ気味となった。7月中旬には梅雨前線が北上し本州を横切り、九州~関東地方の各地で洪水・浸水・山側の崖崩れ、大雨や竜巻が生じたが、前線は南下して弱まり梅雨明けは平年並みだった。1989年7月23日、フィリピンの東海上で発生した台風第11号は、発達しながら北上し、7月23日日23時40分頃、鹿児島県大隅半島南部に上陸。

 その後、九州の西海上を北上し、朝鮮半島に進んだ。これで、宮崎県油津で最大風速32.6メートル/秒を観測するなど、九州地方で暴風となり、瀬戸内海でも海が荒れて、小山田も含め、漁師が、海に出られなかった。やがて秋を迎え、1989年10月11日水曜日の朝、ソニー株が9400円の気配値をつけてるとラジオで知ると、全株、7000株を証券会社の担当者に電話をして、成り行き売りを指示した。すると、10分後、9400円で、全株、7000株が売れたの連絡が入り、税引き後利益が6000万円となり、投資残金が7200万円となった。

 これで、現在、住んでる家賃4万円の3DKの借家から、家賃8万円の立派な4LDKの家に引っ越した。他に6人乗りのクラウンを200万円で購入した。小山田の総資産は7200万円となった。これをみて、漁師の仲間が、どうした宝くじでも当たったのかと聞くと、その通りだと答えた。しかし、今迄の生活スタイルは変えず、漁師を本業にして、副業で、株投資、麻雀、競輪、競艇を続けた。
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