第4話:ソニー株投資と瀬戸内の魚の話

文字数 2,916文字

1987年4月15日、ソニー株を2600円で7000株買いを入れ、3900万円で買い、小山田の残金が1200万円となった。その後、また梅雨が来て、今年は、台風の接近が少ない年で、漁獲量も順調だった。漁師の稼ぎと言うものは、魚の捕れる量で決まる。そう言う点で、しけが少ない年の漁師の顔を笑顔が多く、トラブルもなかった。

 そして1987年は、漁師の取って良い年で、懐具合も良かった。そして冬、12月が終わり、1988年となった。ことし、小山田家の双子の健一と健二が小学校に入学するのでランドセルと必要な物を買いそろえた。ノートや筆箱、ランドセル、新しい靴を見て、2人とも、うれしそうだった。やがて4月になり、小学校の入学式に、姫子を連れて、行くと、2人とも緊張しているのがわかった。

 秋の運動会では、健二が、1年生の紅組のリレー選手に選ばれ、白組、30mリードで、健二がバトンをもらい、どんどん、差を詰めてきたが、あと一歩という所で、抜けなかった。ご苦労さんと言われても、しょんぼりして、悔し涙を流していた。もうちょっとで抜けたのにといつまでも、言っていたので、負けず嫌いの性格に育ったのを父は、目を細めて見ていた。

性格も長男の健一は、明るくてひょうきんな性格で人気者だったが、健二の方は、好き嫌いの激しい子で、数人の親友以外とは、余り口をきかなかった。計算が早く算数が好きで、本を読むのと音楽を聴くのが好きだった。特に、父が聞いていたアメリカンポップスで、英語って格好いいねと、歌の文句の英語を直ぐ覚えて、口ずさみ、英語も好きになった。翌日から、集団登校のために8時に集合して、お兄ちゃん達について、小学校へ向かった。

 その後、夏休みには、家族みんなで、近くの市民プールに出かけ泳いで、平泳ぎを教えると、見よう見まねで覚えていった。そして、夏休み、海水浴場へ行きたいと言うので、バスに乗って、出かけた。20分ほどで到着し、早速、健一と健二が、海水パンツに着替えて、泳ぎ出すと、プールよりも体か浮く感じがして、泳ぎやすいと言った。昼は。持参したおにぎりと焼き魚を食べた。

やがて、15時になり、帰ろうというと、健一も健二も、もう少し泳ぎたいというので、16時までだと言った。16時になると、帰ろうと言うと、わかったと言い、バスに乗って、座席に座ると、コックリをはじめて、寝てしまったが、その顔が可愛いので、数枚、寝顔の写真を撮った。長女の姫子も水着に着替えて、母が、ダッコして、海水に入ると、最初は冷たいと言っていたが、慣れると楽しそうにはしゃいでいた。


 うちでもケーキ買ってきて、クリスマス会をやろうと、健一が言うと、健二が、ケーキと鶏の唐揚げも食いたいと言った。そこで、近くのスーパーで、12月24日、昼間に、良江さんが健一と健二の要望にい答えて、たくさんの鶏の唐揚げとケーキを買って帰ってきた。学校から帰ってそれを見た健一と健二が、旨そうと笑った。

 その晩19時過ぎに、父が帰ってきて、風呂に入り、出ると、クリスマスケーキと鶏の唐揚げが用意してあった。そしてロウソクに火をつけ電気を消して、火をつけると、格好いいと健一が言い、行きで吹き消しても良いよと、母が言うと、賢一と賢二が一気に消した。それを見ていた姫子が、大きな声で笑った。ケーキを6つに分けて、更に置くと、健一は、一気に食べ、健二は、少しずつ味わって食べていた。

 父は、唐揚げと御飯を食べていて、ケーキは、入らないと言うと、男の子が、俺食べるというので半分に分けて、渡した。姫子も、ゆっくりと笑顔で、美味しそうに食べていた。ニンニクの香りが強い唐揚げも、男の子の大好物で、多いかなと思った分量だったが、完食した。やがて、1987年が終了し、1988年を迎えた。この年、漁の安全を祈願しに、小山田家では、少し離れた祇園神社に、初詣でに行った。

この周辺では、冬にはチヌ「クロダイ」漁が盛んだが、今年は大きいのが少なかった。その代わり、イイダコ、マダコ、シャコが良く取れて、年の初めとしては、まずまずの滑り出しだった。

 岡山のさわら漁師は使命感とプライドを持って、春の便りのメインランナー「朝干『あさび』のさわら」を届けるために。さわら漁に臨みます。「そりゃあ朝干『あさび』のさわらが一番じゃ。さっきまで泳いどったのがぐしゃっと網に突き刺さって気が付きゃ夜明けの市場に並べられ、売られて買われて刺身にされて、見てみいあそこで親父が食よおるがな」。

 朝干『あさび』とは。夜明けごろに干潮を迎える頃の事。岡山では朝が干底になるのは大潮の時。大潮には、鳴門や豊後水道から強い潮が流れ込み、それに乗ってさわらがたくさん入りこんでくる。さわらも活発に泳ぎ、網にかかる量も多くなる。夜明け前が干潮の潮止まりとなるので網を揚げるとすぐに港に水揚げし、競りに間に合うタイミングで中央卸売市場に出荷される。

 さわらは身の柔らかい魚です。刺身での消費がメインの岡山では、その身質の良し悪しが値段に響きます。漁師や市場の人々のさわらの扱いは格別で、船の上で網に刺さったさわらを網からはずすときも、体を握って引き抜くようなことは絶対にない。網から外したさわらは、締めて血抜きをした後、頭から尻尾まで延髄に針金を通し「神経抜き」『延髄を破壊することで魚体の自己消化を止める』。その後、海水氷に漬け込む。

 「わしらはさわらの扱いを見たらそいつが素人かどうかすぐわかる。尻尾をもってぶら下げとるような奴は素人じゃ」。「さわらは両手で抱いてやれ」。岡山のさわら食文化には古い歴史があり、かつて江戸時代初期に使われていた岡山城の台所跡で発掘調査を行った折、ゴミ捨て場跡からカキやハマグリなどの貝殻や瀬戸の小魚とともに、さわらの骨がたくさん出てきたそうだ。

 いかなごのふるせ「親」に始まり、しんこ「しらす」。そろそろ、おおぶく「とらふぐ」の走りが入り始める。待って焦がれた、ふぐの季節。岡山では3月下旬から5月下旬まで漁獲される、雄の白子は大きく絶品で、この時期にしか手に入らない貴重な味。1から3kgに育った「白子持ち」の雄のトラフグが、岡山の春の魚の代表。やがて、3月になり、暖かくなると、おおぶく「下津井のとらふく」の漁が始まる。

 春の潮に乗っていろいろな魚が群れになって、島のように目の前の海に押し寄せ、浜は日に日に活気づく。玉野市の沖から水島諸島のあたりまでが漁場で、児島・下津井の漁協に水揚げされる。漁法は、速い潮流の中へ間口を開けた大きな網をこいのぼりの要領で仕掛ける方式。潮をさかのぼるように泳いでいる魚を待ち受ける「袋待網『バッシャ網』」と「底曳網」で漁獲する。

「袋待網」は、あまりの潮の流れの速さに泳いでも前に進まず、後ずさりする魚を待ち受けて捕獲する。干満の区切りの潮止まり「一時的に潮が止まった状態」に魚を船に獲りこみ、潮の向きが変わるタイミングで網を大きく反転させて潮を受け、さらに次の潮止まりまで待つ。水揚げは、その日の一番ゆるい潮時に帰港して行い、またすぐに漁場に帰って漁を続行した。
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