第9話:健一が早稲田へ姫子が医者を目指す

文字数 2,905文字

 父が、細かいことは、全て任せると、母に言い、ホテルに泊まってきてもかまわないよと言った。その後、母は、子供達に体調管理のために気を使って、早寝、早起きと美味しい料理をつくり、風邪をひかないように、人混みでは、マスクを必ずつけるように指示した。そして、2月15日、10時に、早稲田大学理工学部電子工学科を受験に、健一と母が家を出た。

 そして15時に、母から父に電話が入り、今しがた、早稲田大学の近くのホテルに入ったと連絡が入った。翌、16日の19時に母と健一が、岡山の家に帰ってきた。ちちが、2人、どうだったと聞くと、ベストをつくしたと答えた。そして、夕食は、駅で買ってきたと母が、言い、家族5人で、食べた。その後、風呂に入って、22時には、床についた。

 10日後の2001年2月26日、朝一番の新幹線で、母と健一が岡山から乗り込み出発し昼過ぎに、早稲田大学について、13時過ぎに、健一の合格を知り、電話で、父に知らせると、良くやったと、言った。その後、大学の学食で、昼食をとって、19時過ぎに、岡山に3人が帰って来た。この晩、父が、合格祝いの寿司を頼んで、家族5人で、息子達の合格を祝った。

 その後、3月11日、朝一番の新幹線で、母と息子二人が岡山から乗り込み出発し昼に、新横浜ついた。そこから地下鉄で横浜駅に出て、駅近くのホテルに入った。翌朝、タクシーで三ツ沢の横浜国立大学へ向かった。意外に横浜から交通の便が悪いと感じた。そして、リラックスしてから、受験会場に入りなさいというと、軽く伸びをして、深呼吸して、受験会場に入っていった。

 しばらくして、終了の合図があり、会場から出て来て、母が、ちゃんと答案を見直したかと聞くと2回も確認したから大丈夫と言い、健一が、やるだけのことはしたと答えた。その後、地下鉄の駅までタクシーで行き、新幹線に乗り変えて、17時に自宅に帰って、父が、夕飯のおかずを買ってきて、夕食をとった。娘の姫子が、横浜国立大学は、どんなところと聞いた。

 すると、母が、思ったような都会ではなく、丘の上にあり、横浜駅からタクシーで細い道や坂道を15分かけてついたと言い、斜面も多く、イメージしていたところとは、だいぶ違ったと笑いながら言った。健一が、横浜市営地下鉄は、近代的できれいで、新横浜も立派な駅だったと言った。ただ、横浜の名所、みなとみらい、山下公園、外人墓地からは遠いと話した。

 その後、2001年3月21日、朝一番の新幹線、岡山を出て、新横浜に昼前について、横浜市営地下鉄で横浜駅へ行き、タクシーで横浜国立大学へ向かった。昼過ぎに到着して、合格発表の掲示板をじっくりと見ると、健一が、合格してると声を上げた。それを母が確認して、自宅に電話して、合格したと報告すると、父は、おめでとうと言った。その足で、合格祝いだから、このまま、タクシーで新横浜に行き、近くのレストラン街を見て回った。

 健一が、ツバメグリルという店に決めて入った。ランチコースを頼み、ハンバーグ定食とサラダ、デザート、珈琲をいただいた。その後、新幹線で岡山の家に、帰ると19時、父と娘が、寿司をとって待っていてくれた。開口一番、健一が、大学に受かって良かったと笑いながら言った。その頃、健二は、父と同じ、漁業協同組合に入り、雇われ漁師になった。

 そして、この晩は、両親も安心したのか、お酒を飲んで、健一の大学受験の成功に乾杯した。すると、妹の姫子が、私も横浜の大学を受けようかなと言い、横浜市立大学医学部を目指したいと言った。すると、健二が、お前が医者になったら、恐ろしくて、かかる気がしないと笑うと、最近、テレビで名医の話を放送していて、みんなに尊敬される医者に成り立ちと思い始めたと語った。

 2001年、以前、N証券で証券取引の情報をくれた鮫島さんから電話が入り、今年の3月1日で定年退職したので私と一緒に株取引しませんかと誘った。儲かった時、1割の報酬で納得いただければ情報を送りますと言うので、N証券で取引しなくても良いですかと聞くと、かまわないと言うので、小山田は、成功報酬1割の条件で、やりますと言った。

 その頃、健二は、父と同じ漁業協同組合に入り、早朝3時に起き、9時から10時に漁から帰って来て、家で仮眠した。起きて昼飯を食べて、釣りに行ったり、中学時代の友人の自動車、バイクの店に行き整備の仕方を習った。その後、金を貯めて、中古の50CCのバイクを買って乗っていた。また、地元にいる中学時代からの女友達、数人と仲良くしていた。

 2001年4月5日、岡山市南区の児島湖の周辺に住む、奥さんの実家、兼高家の親戚の兼高建蔵さんが広い敷地を古家付き現状渡しで売り出してるという情報を得た。兼高建蔵さんの家の5人の子供達が岡山を離れて、首都圏で、働き、住み独立した。そのため75歳を超えた親夫婦だけになり、近々、老人施設に入所すると聞かされた。その家は、敷地の広さは、約500坪。

 売って欲しいと小山田聡が奥さんの良江さんのお父さんを通じて打診した。すると、是非、交渉したいと連絡が入った。して、義理の父、兼高良一さんと小山田夫妻が、その家の主、兼高建蔵さんと面会した。その席で、小山田聡が、兼高建蔵さんに売却希望価格を聞くと現状渡しで、3千万円で不動産屋に出してると言った。しかし、半年経っても購入希望が出ないので、2500万円にしたと言った。

 2500万円で売ると言うと、小山田聡が、古家の解体費用を200万円と考え、2300万円なら現金で買うと説得した。その後、義理の父、兼高良一さんが、お金に不自由してなければ、売ってもらえませんかと言うと、わかったと承諾してくれた。そして、2001年4月8日、家田不動産屋で書類を交わして、兼高建蔵さんの口座に2300万円支払い購入し、小山田家の預貯金が17700万円となった。

 その後、以前から、小山田聡が、お世話になっている漁業組合の溝口組合長に面会した。その席で、長年、地元の漁業組合、農家の多くの人にお世話になっているので、地区の人が楽しめる施設の集会場を作りたいと話すとよれは良いと賛成してくれた。その集会場の建設の時、一緒に考えていただけませんかというと、そんな事なら喜んで、手伝うよと言った。

 それなら、地元の富島建設の富島社長と、家田不動産の家田社長にもアドバイスしてもらおうおと言った。善は急げと言うから、溝口組合長が、俺に任せろと言い、また小山田に電話すると話した。その後、4月14日の夜、4人で話合いをしようと近くの料理屋の1室に18時に集合することになった。18時に、集まり、夕食をとってから話合いが始まった。

 まず、口火を切って、購入した兼高さんの家の解体と整地費用は、どれ位かかりますかと、家田社長に聞くと、地元の知り合いなので極力安く見積もって取り壊しと整地で300万円。ただし、電気、水道を点検し、交換の費用がかかれば、プラスされると言った。将来、地区の集会所・公民館としての建物を建てるというなら一肌脱いでやると言ってくれた。
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