2020年4月7日

文字数 5,705文字

2020年4月7日
 朝、咳がまだ軽く出るが、気になるほどでもない。夕方、安倍晋三首相が緊急事態宣言の発動をめぐる記者会見を行う。シャンシャン総会ならぬシャンシャン会見でこれまでスポイルされてきた首相は科学的根拠に基づいた具体的政策ではなく、心情の吐露に熱心だ。株主総会なら、失望売りで株価下落、取締役総退陣に向かうだろう。

 パンデミックが深刻化するにつれ、世界の中央・地方政府が保証してきた近代的な自由の権利の制限措置を打ち出している。中には、市民に守らせるために、警察・軍隊を動員したり、罰則を課したりしている。それはリヴァイアサンの復活である。

 近代の政治・経済社会は主にジョン・ロックの社会契約説を基盤にしている。その際、トマス・ホッブズのそれは前提に位置づけられる。ところが、社会的に生命の危機が拡散するパンデミックはその前提であったホッブズの社会契約説を顕在化させる。

 だが、パンデミックがリヴァイアサンを復活させることは思想史にはそぐわない。ホッブズが自身の社会契約説を主張したのは宗教戦争の経験が影響している。ペスト禍ではない。それは政治の目的に起因する。

 前近代は共同体が個人に先行しているとする共同体主義の社会である。共同体の規範が個人に内面化されている。前近代において政治の目的はよく生きること、すなわち徳の実践である。疫病がこれを覆すことはない。疫病を神罰とするからだ。一方、宗教戦争は自身の道徳の正しさを根拠に殺し合いを行っている。信仰心が戦争の根拠である。そのため、ホッブズは政治の目的を徳の実践から平和の実現に変更する。平和でなければ、よく生きることもできないからだ。平和の実現のために、人々は自由の権利の一部をリヴァイアサンに信託する。

 ホッブズの議論は近代の基本的原理を提供している。平和の実現のために、彼は政治と宗教を分離する。政治は公、道徳は私の領域に属し、相互干渉は許されない。個人には内面の自由が認められているのだから、それは共同体に先立つ。ここから政教分離=公私分離や個人主義など近代の基本的原理が導かれる。ロックはこれを敷衍して自らの社会契約説を展開、近代の政治・経済社会がそれに基づいて発展していく。

 リヴァイアサンが復活しても、それはロック以前への回帰ではない。あくまでロックを踏まえているからだ。彼によれば、政府は社会のためにある。社会は依然としてあるのであり、リヴァイアサンはその防衛のために、個人の権利の制約を信託される。しかし、政府に信頼がなければ、人々がそうすることはない。パンデミックは個人の自由な活動が事態を悪化させ、生命の危険も増す。そのため、個人は自由の権利の制約を政府に委ねざるを得ない。だが、政府は信託された権力を社会ではなく、自身のために行使する危険性がある。パンデミックさえも保身の口実にしかねない。だから、政府には情報の公開性や意思決定の透明性が不可欠である。

 ところで、COVID-19においては誰もが感染者になる可能性がある。マルサス・モデル流の拡大を見せる。しかし、経済ではそれがさらに進み、感染者と非感染者の区別なく、影響を及ぼす。経済は相互依存している。経済がグローバル化すれば、想像力にも地球規模が要求される。だから、感染者と非感染者の区別が経済においてはない。

 リヴァイアサンは相互性を断ち切るので、経済的停滞を悪化させる。しかし、パンデミックによる長期的な損失がリヴァイアサンの短期的なものよりも大きいと推定される。そうした合理的計算の下に、社会はリヴァイアサンの復活を時限的に容認する。その際、不安な気持ちをわかって欲しいという人々の声に耳を傾けることも不可欠だ。コミュニケーションも相互性だからである。その相互性を断ち切ることはリヴァイアサンの自己目的化につながる。

 新型コロナウイルスがパンデミックになった一因は、それを世界が自分の問題と考えなかったからだ。中国の武漢で新型肺炎が流行し始めた時、世界の多くの当局も人々もローカルな出来事と見なしていたにすぎない。しかし、その疾病が地球規模に拡大しなかったとしても、相互性があるのだから、他人事と思うのは不適切である。想像力のグローバル化は信頼のそれを意識することを促す。無関心はその信頼が崩れていることを物語る。そう思っているうちに、COVID-19はグローバルな問題に拡大する。かくしてリヴァイアサンが復活せざるを得なくなる。事態を乗り切るのに最も必要なのは相互信頼である。だから、嘘つきの指導者の下、公文書を偽造、情報を隠蔽、恣意的な法の運用をする政府は論外だ。

 『ジョーズ』をそんなパンデミック下で視聴すると、以前と違う印象を覚える。それは何も主演のロイ・シャイダーがエマニエル・マクロン仏大統領とルックスが似ているからだけではない。『ジョーズ』はスティーヴン・スピルバーグ監督による1975年のアメリカ映画で、原作は1974年に刊行されたピーター・ベンチリーによる同題の小説である。

 『ジョーズ』は、感染症を扱った映画以上に、今回のパンデミックにおける政治的・経済的・社会的影響を思い起こさせる。『コンディション』や『感染列島』など感染爆発を取り扱った作品は相互性を通じた影響の広がりを十分に描いていない。感染力が強く、致死以率の高い感染症を取り扱うと、核戦争と同様、人類存亡の危機と状況設定できるので、さまざまな影響を描かなくてすむ。具体的題材でなく、抽象的構造に着目するなら、『ジョーズ』の方がはるかに新型コロナウイルスの時代の状況を捉えている。巨大ホオジロザメが新型コロナウイルスの比喩と理解するなら、休校などそこまでの広がりは取り扱っていないけれども、これは同時代的、あまりに同時代的作品である。

 アメリカ東海岸のアミティ島の浜辺に女性の遺体が打ち上げられたと連絡が入り、赴任したての警察署長マーティン・ブロディが現場に急行する。遺体はむごいありさまで、鮫に襲われて亡くなったという検視結果が報告される。それを受け、ブロディは速やかにビーチを遊泳禁止にしようとするが、ボーン市長が待ったをかける。島の主要産業は観光関連業で、特に夏の海水浴シーズンは稼ぎ時である。遊泳禁止措置を取れば、観光客の足が遠のき、島の経済に大打撃を与える。市長はそれを恐れ、船のスクリューに巻きこまれた事故死だと主張、ブロディも一旦引き下がる。ところが、その後、海で遊んでいた少年が鮫の犠牲になってしまう。彼の母はなぜ遊泳禁止措置を取らなかったのかとブロディを責め、鮫退治に懸賞金を出すと公表する。地元以外のメディアもこの人食い鮫のニュースを伝え、島は出入りする人々で混乱し始める。

 ここまでのストーリーでも、今回のパンデミックのエピソードと重なるところがある。中国政府が認めていない時に武漢の李文亮医師は新型肺炎の発生をSNS上で警告、それがデマを流したとして当局の取り締まりを受け、その後自らも感染して亡くなっている。また、経済活動を優先するために、ドナルド・トランプ大統領は新型コロナウイルスを軽視して対策を取ろうとなかなかしなかったし、ブラジルのジャイル・ボルソナロ大統領に至ってはメディアのでっち上げと存在自体を認めない。首脳がそうした姿勢のため、規制が遅れ、犠牲者を出してしまう。

 ブロディはビーチを閉鎖しようとするが、経済的損失を恐れる住民からも反対される。地元の漁師クイントが1万ドルの報酬を払うなら鮫を退治してみせると豪語、懸賞金目当ての連中も島にやって来る。苛立つブロディの元へ海洋研究者マット・フーパーが訪ねる。ブロディに案内された彼は最初の犠牲者の遺体をしらべ、それが大型の鮫による被害だと断定する。その頃、浜辺では地元漁師が仕留めたイタチザメを披露し、人々は人食い覚めが退治されたと湧き上がっている。しかし、それを調べたフーパーは特徴が被害者の遺体に残された痕跡と違うと指摘、念のため胃の中身を確かめるべきだと主張する。だが、市長を始め浮かれている住民は耳を貸そうとしない。

 その夜、ブロディはフーパーを食事に招待する。フーパーは人食い鮫がまだ捕まっていないとし、餌の供給を絶たない限り、狩場に居座り続けると訴える。そこで、ブロディはフーパーと共にこっそり捕獲されたイタチザメの腹を裂く。胃の中に人間の形跡がなく、例の人食い鮫でないことが判明する。フーパーは確認のため夜の海に船を出し、ブロディも同行、探知機の反応を目指して進むと、無残に破壊されて引っくり返った地元漁師の船を発見する。船底には大きな穴が開き、ホオジロザメの歯が引っかかり、船内には犠牲になった漁師の遺体が浮いている。

 懸賞金による鮫退治はワクチン・治療薬開発に重なる。政府や財団などがその研究に膨大な資金を投入している。パンデミックの終息は集団免疫の獲得かワクチンの開発によるからだ。承認済みの薬が治療に効果を上げたとの報道も時々伝えられるが、だいたいはぬか喜びで終わる。また、経済的損失を恐れる政治家や住民は事態の推移に慎重な見方をとる専門家の提言をあまり聞き入れない。都合のいい情報を優先したり、科学的根拠の乏しい楽観論を信じたりして、専門家を疎ましく思う。これらはトランプ大統領の認知行動そのものだ。

 翌日、ブロディとフーパーは市長に昨夜の件を報告するが、無視される。市長は海開きを宣言、ビーチには人食い鮫の捕獲を信じた大勢の観光客で溢れかえる。鮫の背びれが海中から出現してパニックが起きるものの、子どもの悪戯と判明する。しかし、ホッとしたのもつかの間、その直後に本物の人食い鮫が現われ、犠牲者が出てしまう。事の重大さを認識し、病院で街のためだったと言い訳をする市長にブロディはクイントを雇うように強く進言、承認を取りつける。クイントが指揮を執り、ブロディとフーパーが助手として彼の船に乗って、鮫退治に出港する。

 政治指導者は安全が確保できていないという専門家の意見に耳を貸さず、経済活動の再開をすすめる。住民も生活がかかっているからそうした方向を望む。政府が休業補償するならともかく、そう簡単に規制に応じられない。しかし、その願望的見通しが痛ましい犠牲をもたらしてしまう。理解すべき事情があるとしても、他人事という認知行動が犠牲の増加につながる。また、死亡者数が他の死因と比べて多くないので、政府は外出制限策をとる必要がないとはならない。その野放図さが被害の拡大につながるからだ。実際に対応を現場で担うのは専門家であり、結局、事態収拾にはその力に頼らざるを得ない。

 クイントとフーパーの折り合いが悪く、ブロディも船乗りは初めてで、鮫退治への思いは共有していても協力がなかなかできない。その時、3人の目の前に巨大な人食い鮫が姿を現し、ブロディは後ずさりして「あの鮫と戦うにはこの船は小さすぎる」とつぶやく。クイントは樽をロープでつないだ銛を鮫に突き刺すが、それをつけたまま海中に潜っていく。日没が迫る中、クイントは海上で夜を明かすことを決意する。

 夜、酒が入って、クイントとフーパーは意気投合する。フーパーがクイントの腕に刺青の痕を見つけ、彼が沈没したインディアナポリスの船員だったと知る。クイントが大勢の仲間と海に投げ出され、鮫の群れに襲われ続けた恐怖を語り始めた時、船内に鮫の襲撃による衝撃が走る。翌朝、クイントは姿を現わした鮫に再び銛を突き刺し、3つの樽をつけることに成功する。さすがに潜れないだろうと自信を見せたクイントの前で、またしても鮫は樽と共に海中に消えていく。しかも、浅瀬に誘い出そうと無理に船を動かしたため、エンジンが故障してしまう。そこで、フーパーは硝酸ストリキニーネを取り出し、20cc鮫に注射できれば確実に倒せると2人に説く。他に妙案もない3人はその案に望みをかける。

 フーパーは、鮫の口内に銛で直接硝酸ストリキニーネを注入する作戦を考案、檻に入りって海中でその出現を待つことにする。ところが、鮫はフーパーの背後から襲いかかり、衝撃で彼は銛を落としてしまう。しかも、鮫の衝撃により織が壊れ、フーパーは命からがら脱出、海底に身を潜める。鮫の出現を知った船上の2人は急いで檻を引き上げるが、その中にフーパーの姿はない。そこへ鮫が襲いかかり、デッキに乗り上げたため、船体が大きく傾き、クイントはその口内へ滑り落ち、海に引きずり込まれていく。

 ブロディは沈む船内で酸素ボンベを発見、襲いかかってきた鮫の口にそれを投げつける。ブロディは穂先によじ登り、鮫が噛んだボンベを狙いライフルを発砲する。ボンベは大爆発を起こし、大量の血と肉片を撒き散らしながら鮫は死ぬ。そこへフーパーが現われ、2人は互いの無事と勝利を喜び、泳いで島に向かっていくのである。

 船は医療現場の比喩として理解できよう。相手は自分の経験や予想を上回る。医療従事者はその閉鎖空間で最善を尽くしているが、資源は十分ではなく、活動の中でそれも失われていく。しかし、助けは外部に必ずしも期待できない。人でも足りず、感染爆発地域では医学生も現場に入らざるを得ない。しかも、医療従事者がその過程の中で命を落としている。とにかく知恵を絞りだして治療に有効な手立てを試すほかない。

 この映画で人食い鮫はほとんど映像に登場しない。それは見えない恐怖として観客に迫ってくる。これはCOVID-19も同様である。新型コロナウイルスの姿を画像で多くの人々は知っている。だが、肉眼で見ることはできない。人々はインヴィジブルであるため、恐れ、不安になり、疑心暗鬼に陥る。その挙句、人格化して醜い行動にしばしば走る。

 夕食には小松菜チャンプルー、ダイコンキムチのスープ、野菜サラダ、ジャガイモと三つ葉のヨーグルトサラダ、新タマネギのおかかサラダ、食後はコーヒー。屋内ウォーキングは10319歩。都内の新規陽性者数は80人。

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