2020年4月5日

文字数 1,210文字

2020年4月5日
 朝はいつも咳が出るが、今日は特にひどい。しかし、それでも9時過ぎには収まる。

 新型コロナウイルスは誰にも感染する可能性がある。だが、そのリスクには政治的・経済的・社会的不平等による偏りがある。それは、改善しなければならないのに、他人事と目をつぶってきた諸問題を増幅して顕在化させる。

 吉田は平常よく思い出すある統計の数字があった。それは肺結核で死んだ人間の百分率で、その統計によると肺結核で死んだ人間百人についてそのうちの九十人以上は極貧者、上流階級の人間はそのうちの一人にはまだ足りないという統計であった。勿論これは単に「肺結核によって死んだ人間」の統計で肺結核に対する極貧者の死亡率や上流階級の者の死亡率というようなものを意味していないので、また極貧者と言ったり上流階級と言ったりしているのも、それがどのくらいの程度までを指しているのかはわからないのであるが、しかしそれは吉田に次のようなことを想像せしめるには充分であった。
 つまりそれは、今非常に多くの肺結核患者が死に急ぎつつある。そしてそのなかで人間の望み得る最も行き届いた手当をうけている人間は百人に一人もないくらいで、そのうちの九十何人かはほとんど薬らしい薬ものまずに死に急いでいるということであった。
 吉田はこれまでこの統計からは単にそういうようなことを抽象して、それを自分の経験したそういうことにあてはめて考えていたのであるが、荒物屋の娘の死んだことを考え、また自分のこの何週間かの間うけた苦しみを考えるとき、漠然とまたこういうことを考えないではいられなかった。それはその統計のなかの九十何人という人間を考えてみれば、そのなかには女もあれば男もあり子供もあれば年寄としよりもいるにちがいない。そして自分の不如意や病気の苦しみに力強く堪えてゆくことのできる人間もあれば、そのいずれにも堪えることのできない人間もずいぶん多いにちがいない。しかし病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることのできない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばして嫌応なしに引き摺ってゆく――ということであった。
(梶井基次郎『のんきな患者』)

 これはパンデミックではなく、肺結核に関する小説である。けれども、今回の新型コロナウイルス感染症にも通じる。確かに、感染リスクは経済的不平等が反映する。しかし、未知の部分が多いこのウイルスに発症して死に至る時、そうした違いはない。だから、他人事として捉えることは楽観的すぎる。

 夕食は青椒肉絲にジャガイモと豆腐の中華スープ、野菜サラダ、キュウリとちくわの和え物、食後はコーヒー、干し柿。屋内ウォーキングは10669歩。都内の新規陽性者数は143人。

参照文献
梶井基次郎、『檸檬・ある心の風景 他二十編』、旺文社文庫、1972年
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