第163話 覚醒と崩壊●「母校は遠くに」
文字数 3,666文字
「部外者の方は許可を取ってから入ってください。それに打撃練習をしている選手もいるので今は危険ですよ!」
と声を荒げた。里中はちょっと面食らったが、すぐに後ろから
「馬鹿野郎!そん御方は里中さんじゃ!お前ら!里中さんも知らんで、よく由良明訓に入って来たのぉ!」
一年生部員は瞬間、顔面蒼白になり、
「あ!あのサイドスローの里中さん!失礼しました。たぶんOBの方だと思ったんですが、あまりに格好いい人なんでファールボールでも当たったら大変だと思いまして」
土下座せんばりかに謝る一年生に
「いやまぁ。俺も勝手に入ってきたから悪いんだ。見学者に怪我をさせないという心がけは良いじゃないか」
と労っていると声をかけた二本松を筆頭に浜、池田らが里中の元へ集まってきた。池田は部員を集めると整列して里中に向かって「礼!」と号令をかけた。真面目人間の池田が主将になって、むしろ以前よりも軍隊風の野球部に変わっていた。
高校時代の里中を一番慕っていたのが浜である。浜は子供のように喜んでいる。
「やっぱり名古屋の街に出て先輩は垢抜けましたね。土井さん田山さん、岩城さんはプロ入りしてしまったんで、今のアマチュア野球とプロ野球の規制で、来て貰えないんですよ。普通に世間話しているところを写真撮られて、プロに指導を受けたとか言われたら出場停止ですからね。でも、やはり寂しいですよ。里中先輩は今日は?」
「あぁ…。世間話をしに来たんだよ」
「あはは!世間話ですか?どんな?世間話しましょうか?」
「あぁ。はっきり言おう。柵新学院の湯川勝って、どんなだったんだ?」
そう言った途端に浜の顔色が変わった。
「浜一人が言わなくていい。練習が終わるまで待つから。それから池田や二本松。それに織田監督も含めて話そう。ノンプロの薄給だが、お前らに腹いっぱい食わせる小遣いぐらいはある。今は新生由良明訓野球部を見せてくれ」
そう言って練習が終わるのを待った。里中の目には田山や岩城など目立った体格の選手はいないものの、小粒ながらスピーディーで、まとまりのいいチームになっていると思った。
しばらくして近場の定食屋に里中、織田、池田、浜、二本松の五人が揃った。監督の織田は「今では飲めるんだろ」とビールを勧めたが里中は固辞した。ガイヤンツの岩田スカウト部長に接触されていることを話すと織田も「いい話じゃないか!頑張れ」と激励した。
里中としては目的の湯川の話題になった。池田が、その試合前の記念写真を里中に見せた。親善試合の意味合いもあり、試合前に両チームで撮影したものだそうだ。
「一年生としては、かなりデカいです。これが湯川ですよ」
と池田が指差した。高校時代は力士と呼ばれる田山やプロレスラーと呼ばれる岩城と一緒にプレーしたせいか、里中の目には確かに他の選手に比べると逞しいが、大男には見えない。それよりも不敵な笑みを浮かべた表情。ドンクリのような目。野球帽から、はみ出した大きな耳が印象に残った。
「そんなに大きいか?まぁ、この写真だと耳の大きい男だと思ったが…」
池田は次に学校の新聞部が撮影したという試合中の写真を見せた。一塁側の後方から撮った写真だろう。右バッターボックスに浜がバットを構えている。背番号1のピッチャーが湯川だろう。顔は見えないが耳が大きく目立っている。ボールを握った右腕が、ほぼ直角に曲がっている。ピッチャーとしてはオーソドックスなスリークォーターの投球フォームだ。
「里中先輩。このお尻!それに、この太腿を見てください」
池田と浜が湯川の下半身を指差す。確かに逞しい。里中が三年になった時に二本松が入部してきた。太腿と肩幅だけが不恰好に大きく、驚かされたのを思い出した。
「確かに凄い下半身だな。二本松ぐらいか?」
「とんでもない!確かに俺も人一倍走ったし、投げ込みもしました。鉄アレイでも鍛えましたけど、湯川の尻は、もう人間の尻じゃない。カバとか馬とか動物の尻ですよ」
「分りやすく説明すると岩城さんの上半身に田山さんの下半身をくっ付けたような感じです。まぁ身長は岩城さんよりは低いですが、百八十は超えてる感じなんで、かなり大きいです」
浜が興奮したように里中に説明した。
「分った。だが写真のフォームだと凄くオーソドックスなんだが?何か変わったボールを投げるのか?」
浜、池田、二本松は顔を見合わせて
「ストレートとカーブだけです」と答えた。
「それだけ?なんで、お前らが完全試合なんかやられたんだ?」
「すいません!」と三人が声を揃えて頭を下げた。それまで黙っていた織田が話し始めた。
「なぁ。里中。お前もピッチャーだ。もしバッターをツーストライクまで追い込む。少し遊んでボールも投げる。最後、狙って三振を取りに行く時。どんなコース。どんな球種で三つ目のストライクを取りにいく?」
「俺の場合ですか?まず低めの変化球ですね。バッター右なら真ん中からボールゾーンに逃げるスライダーかカーブ。ボールカウントに余裕があればボールゾーンからストライクゾーンに入ってくるシンカー。バッターが左なら、その逆ですかね」
「まぁ…そうだろうな。じゃあ里中よ。お前だって、この由良明訓で三番打者をやった選手だ。狙い球が外れて空振りする時って、どんな時だ?」
という織田の質問に対して
「コースで裏をかかれた時。後は浜の得意のフォークボールとか、チェンジアップとかストレートを狙ったボールが落ちた時ですね」
と答えたが織田は矢継ぎ早に訊いてきた。
「それじゃあ。ボールが落ちた場合。バットの軌道はボールと比べて、どうなんだ?」
「決まってるじゃないですか?バットに対してボールが下に逃げるような感覚ですよ」
ちびりちびりとビールを飲みながら織田は「そりゃ当然だ」と頷いている。
「ところがだ。あの湯川勝って男は内角高めを勝負球にしてくるんだ。江口敏だって外角低めが決め球だぜ。しかも、あいつのストレートを空振りすると必ずバットの軌道より上をボールが通過しているんだ。信じられるか?そんなこと」
里中も唾を飲み込んだ。投手として三振を取る経験もある。打者として三振を取られることもある。しかし、その時はバットの軌道よりボールは低いのが常識だ。織田が続けた。
「ほれ。お前らは挨拶程度しかしてねぇだろうが、覚えてるだろう。岐阜青雲大学付属野球部顧問の天野先生」
「覚えてますよ。学者先生。織田さんは凄く天野さんを立てていた」
「そりゃそうだ。何も天野さんの立場を尊重しただけじゃない。弱小野球部を見事に率いていた。物理、化学、数学。いずれは大学教授になる先生だ。その天野さんが言うには、よく剛速球投手のボールが浮き上がるとかホップするって言うだろう?それは全て目の錯覚だと言うんだ。江口敏もボールが浮き上がったと言われたこともあったが、それはないというんだ。ストレートでもボールは常に回転していて、それが空気抵抗により少しづつ落ちる。フォークボールなんてのは、その空気抵抗を受けやすいようにボールの回転数を減らしたものだそうだ」
「はぁ…難しい話ですが、なんとなく分ります。今のチームに高山さんという先輩の速球投手がいるんですがカーブの握りで投げても曲がらないって嘆いているんです。たぶんボールが回転し過ぎて空気抵抗を受けずに弾いてしまうんでしょうね?」
「その通り。江口が割りと簡単にカーブやスクリューボールを投げられるようになったのは俺の指導の他に天野先生の説明があったからだ。だから下手な根性論や猛練習をせずに、江口はボールに回転を与えないように練習するだけだった」
加えて浜が説明した。
「里中さん。ストレートというのは地上に対してボールが上向きに回転しているんです。イメージとしては回転しないボールが弾丸みたいにズドーンと投げられているように感じますが、実は急速って、そのボールの回転数に比例するんです。俺も織田監督に、それを教わってストレートもフォークも二年の時より進歩したつもりです。でも湯川君のボールは、その物理法則までも超えてしまっているんです」
「俺も最初は、そんな馬鹿なことはない!と思ったよ。ただ何回見ても、こいつらのバットが湯川のボールの下を空振りするんだ。俺は何度も、それは目の錯覚だと言ってやった。だが確かに湯川の野郎のストレートはニュートンの法則さえも変えちまっている。江口なんかとはケタが違う回転数がボールに与えられていて空気の壁の上に上がってしまうとしか考えられねぇ。全く常識外れの怪物だよ!」