第178話 崩壊の前日●「王者の驕り」

文字数 2,893文字

 1971年十一月十九日。第七回プロ野球ドラフト会議当日である。学生運動の影響で東京六大学野球、東都大学野球らのリーグ戦は盛り上がりに欠けた。高校野球では栃木県代表の柵新学院の一年生投手、湯川勝が圧倒的な怪物ぶりを発揮したせいか、「湯川の二年後」に注目が集まり、他の実力者が霞んでしまった。そのせいか例年になく社会人野球に偏った指名が目立つドラフトとなっていたのである。
 里中繁雄を東京ガイヤンツが指名することは既成事実になっていた。スカウト部長の岩田は競合と見られる近畿リンクス、藤井寺パールスに裏工作をして里中の単独指名を決めていた。里中には事前に記者会見を開き「全丸大を都市対抗全国大会に出場させるため、プロ入りは拒否いたします」と公式発表させていた。その他のチームから横槍が入らぬように二重三重の対策を行っていたのである。
 全丸大のクラブハウスで野球部員はテレビ中継を観ていた。早々とプロ入り拒否宣言をしていた高山は高見の見物という風情だが、加藤と中間のコンビなどは「どっか酔狂な球団が採ってくれんかな」などと言っている。実際、攻守に渡る彼らの活躍ぶりは、その可能性も秘めていた。
 パシフィックリーグ最下位のユニオンズから一位指名が始まった。続いてタイタンズ。東京ガイヤンツは三番目の指名権である。全員が里中の顔を見る中「東京ガイヤンツ第一回選択希望選手。館山良一、二十二歳、投手、立海大学」とアナウンスが流れた。
 「はぁ?あの岩田とかいう、おっさん。スカウト部長だとか言ってるけど、本当は役立たずの出来損ないなんじゃねぇのか?」
 「あぁ…ああいう大企業ってのには偉い人の縁故かなんかで就職して、役職だけ貰っているようなボンクラ社員がいるもんだぜ」
 里中が落胆する前に口の悪い中間と加藤が毒舌を吐いた。お陰で里中は少し救われたような気分になった。二位指名。三位指名になっても里中繁雄の名は呼ばれない。九州のノンプロ投手や和歌山の高校生などが指名されていく。監督の下川も「話が違うんじゃないか?」と呟いた。高山は「来年もウチでやりゃあええやん」と里中の肩を叩いた。
 「東京ガイヤンツ。第四回選択希望選手。里中繁雄。十九歳。全丸大」
 「四位ねぇ…。なんだか力が抜けちゃったよ」
 里中が言うと周りも「入団拒否して来年、上位指名を貰ったら、どうだ?」という意見に傾き始めた。里中は冷静を装って「電話が来るでしょうから、そこでガイヤンツと話をしますよ」と言った。ほどなくクラブハウスの電話が鳴り、下川が対応した。里中に向かって「岩田さんだ」と言いながら受話器を渡した。案の定、岩田スカウト部長本人の声だ。開口一番
 「すまん!本当にすまん!ここまで手を回しても首脳陣は君の潜在能力を分っていないのだ。君もドラフト四位では納得いかんだろう。だが球団には朱美さんの就職も頼んである。こんなことは特例だ。それに契約金や年棒に関してはドラフト一位指名と同等の扱いをさせてもらう。この条件も球団に取り次いである」
 普段の岩田のむっつりした態度とは別人のようにうろたえている。里中も最初は興奮しており、突発的に
 「ドラフト一位相当と言われるのでしたら、契約金一千万円をいただけるんでしょうか?」
 かなり強気な金銭要求を求めた。その成果はあり、契約金九百万円。一年目に一軍で一勝でもできたら百万円という事実上、最高契約金の確約を得た。あまりにも簡単に金銭で事が片付いたので里中は拍子抜けしつつも「これがプロか!野球を金でやるところなんだな」と思うと身が引き締まる思いをした。
 金銭面で話がまとまったということは事実上、里中の東京ガイヤンツ入りが決定したということになる。すかさず岩田が条件を出した。
 「今日は行けないが明日、必ず私が名古屋に行く。ただ、その前に新聞記者が君を取材に行くだろう。その時は入団拒否をしたと答えてくれ!理由は全丸大で都市対抗全国大会を達成したい。というのでいい。それだけは絶対に頼む!」
 そう言うと岩田の電話は切れた。この話はチームメイトのは話さず。下川監督にだけ打ち明けた。下川は少し考えたが
 「ガイヤンツが何らかの工作をして近畿リンクスと藤井寺パールスに指名回避をさせたのだろう。単独指名ができると見ての四位指名なんだろうね。なんとも王者ガイヤンツだってあって、やることに抜け目がないね。それに本当に君が夏の本大会まで全丸大に在籍していたとしても来年の十一月までガイヤンツは交渉権がある。今日、君が入団拒否を正式発表してもガイヤンツは時間をかけて君を説得したということにすればパールスやリンクスに申し訳が立つ…そんな事情があるんじゃないかな。まぁ、今のところは練習試合も含めて、今までどおり我々の練習に参加していればいい」
 とにこやかに説明した。そして、ほどなく数人の新聞記者が全丸大の練習グラウンドに到着した。カメラマンの一人が
 「あれぇ?誰かと思ったら由良明訓高校四天王の里中君と同一人人物だったのか?」
 と里中の顔を見て驚いた。どうやら高校時代にも里中を撮影したカメラマンだったようだ。当然のことながら里中の中では高校時代よりもノンプロでやってきた一年はレベルの高い野球をやってきたつもりだった。だが、スポーツ記事専門のカメラマンでさえ注目度は高校野球の方が上なのだ。矛盾は感じつつも、それが現実なのである。
 「東京ガイヤンツが四位で指名しましたが、どのように答えましたか?」
 「今日のところはお断りしました。もう一年、この全丸大でプレーするつもりです。都市対抗全国本選を目指してチームに恩返しをしたいと思っています」
 と答えた。数人の記者は里中の内心を見透かしたようにニヤニヤといやらしい笑いを浮かべている。「今後、ガイヤンツと条件等について話し合うということですね」と訊いてきた。ちょっと棘のある言い方に里中はムカッとしたが、平静を装い。
 「今日のところは、これ以上のことは考えてません。ただ東京ガイヤンツのような最高の野球選手が集まったチームから指名していただいたことは光栄に感じています。まだ家族とも相談していませんし、自分だけで決められる問題じゃないです」
 と答えた。記者は相変わらずニヤニヤとしながら、次の質問をしようとしたが口を閉ざした。そして怯えるように目を伏せた。里中は、なぜ、その記者が質問を止めたのか?判らなかったが、程なく意味が分った。
 記者会見に使われたミィーティング室に、いつの間にか加藤、中間が片隅に入り込んでおり、腕組みをしながら喧嘩を売るように鋭い眼光で、その記者を睨みつけていたのである。今は、おとなしく物流部の社員として働き、チームの中心選手として活躍しているが、かつては「愛徳見たら110番」と言われた名古屋の暴れん坊である。
 里中は、なんとか真面目な表情を作っていたが、本心は爆笑したい気持ちだった。反面、すでにガイヤンツとは、それなりに交渉が進んでいることを見透かしたような記者の態度に、プロ野球界の怖さを感じたものである。
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

河村監督●東京ガイヤンツ九連覇を成し遂げる大監督。当初、痩身の里中を疎んじていたが、徐々に、その闘志と技術を認めていく。選手とは、あまり話をせずに腹心の報告によって対応する。管理野球の申し子。

長尾●ガイヤンツの二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍投手コーチと人事異動の多い河村の腹心。無愛想で口うるさい人物のため選手には嫌われている。江口敏を死に至らしめた一因は自分にあると自責しており、里中に期待をかける。

黒岩●ガイヤンツ二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍守備走塁コーチ。もともとガイヤンツOBだが一時期は広島の海洋モータースの監督を務めた。長尾とは正反対の親分肌の人物で選手から好かれているが、采配には疑問が残る。投手として入団させた人材を野手に転向させたがる傾向がある。

藤井●ガイヤンツ一軍投手コーチ、二軍監督。現役時代はガンジーと呼ばれる痩身のエース。そのため似たタイプの里中に目を掛けている。褒め殺しで投手を乗せる性格は選手に人望があるが、それ故、河村や長岡に疎まれてガイヤンツを退団する。

中川●ガイヤンツ二軍投手コーチ、現役選手よりも若いため若手選手の兄貴分のような存在。河村からも信頼を受けており、人事異動の多い組織の中で定位置をキープしている。

牧場●現役時代は中京ドアーズの内野手。英語が堪能でメジャーリーグの文献を研究しているため河村の声でガイヤンツのヘッドコーチに就任。一時期は守備走塁コーチに降格したが、その堅実な作戦は常勝軍団の頭脳と判断され、再びヘッドコーチに戻る。

長岡●六大学野球から鳴り物入りでガイヤンツ入りしたスーパースター。河村の勇退後の監督に内定しており、現役晩年は衰えを見せながらも最後の最後まで燃える男の真骨頂を見せる。

司馬●元甲子園優勝投手だがガイヤンツ入団と同時に打者へ転向。当初は伸び悩んだが、荒井打撃コーチの指導により一本足打法を開眼させ世界的なホームラン打者になる。長岡より五歳年下ということもあり、九連覇末期に、その打撃技術は円熟に達する。

堀本●紳士的なガイヤンツの選手の中で、あえて悪太郎という不良キャラクターを演じるエース。プライドと強気のピッチングが魅力。

高岡一三●堀本が右投手のエースなら、こちらは左のエース。性格も、どちらかというと陰気な真面目人間。堀本とは不仲なふりをしているが裏では大の仲良し。気が弱いのが弱点。

林●ガイヤンツ黄金時代のキャッチャー。陰険でケチ、投手はもちろん選手からは嫌われているが河村には絶対的な信頼されている。巧みなインサイドワークとポーズとしての弱気で相手を騙す。グラウンドの司令塔。

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