第158話 覚醒と崩壊●「きれいなボール」
文字数 3,498文字
河村監督の意向により、二軍のイースタン戦で一勝を挙げたところで三年目の新山を一軍に昇格させた。甲子園準優勝から高校中退でのガイヤンツ入り、さらに左腕投手ということで野球マンガの主人公と似通った境遇の新山は「本物の星飛雄馬」と期待されたが、一軍初先発で中京ドアーズ打線にプロの洗礼を受ける。コントロールミスから甘いコースを狙い打ちされて三回で四失点のノックアウト。チームの連勝を十二で止めてしまったのである。
長尾二軍監督は常々「スピードとコントロールでは同じサウスポーでも江口敏が上。しかしフォーメンションプレー等への適応。ピッチングへの執念等の精神面では新山が上」と報告している。江口敏もイースタン戦ではリリーフながら数試合の登板をしている。概ね好投した。二軍の捕手達が口を揃えて言うのは「江口は剛速球投手と聞いていたので、多少の荒れ球は覚悟していたが、プルペンでも試合でもミットを動かすこともない。コントロールは凄いものを持っている」といったニュアンスの報告をしている。
これらをまとめた長尾の一軍への報告は「江口投手はスピード、コントロールは非情に優秀です。ストレートだけではなくカーブ。それにスクリューボールまで、きっちりと投げるのには一軍のエース級も適わないと思います。しかし二軍監督として意見させていただきますとボールに迫力がない。球速はあっても球威がないという印象です」という内容になった。
この長尾の報告に対して河村監督は「一軍昇格という意味ではないが、練習日に打撃投手として一軍レギュラー相手に打撃投手として貸し出して欲しい。江口君にとってもガイヤンツのレギュラー相手に投げるのは勉強になる。一軍にとってはガイヤンツキラーとして打線を苦しめているタイタンズの湯夏対策としたい。球速、制球が良く左腕であることを考慮すると、双方にとって良い練習になる。練習日の二日前からイースタン戦での江口登板を控えてもらいたい」との要望を貰った。無論、長尾は承諾するしかない。
こういった経由で入団以来、初めて江口敏は一軍の練習に加わった。目の前にミスタープロ野球長岡が柔軟体操をしており、ホームラン王の司馬が素振りをしている。ブルペンではエース堀本と高岡が並んで投げている。その他、捕手の林。スイッチヒッターの芝山。無口で地味な五番打者の末吉。外野守備の革命児と呼ばれる真田。ガイヤンツの忍者と呼ばれるセカンドの井上。ノンプロ上がりから根性と努力でレギュラーを勝ち取ったショートの白江らがグラウンドに姿を見せた。江口は。やっぱり凄いチームだと身体が震えた。
ユニフォーム姿の河村監督は、やはり怖いような威圧感があった。江口は「頑張ります」と言うのが精一杯だった。スカウトの時点で捕手の林とは会話していたが、その時の優しい雰囲気は林にはなかった。一言「しっかり投げろよ。貴重な練習時間なんだ」と冷酷に告げただである。
練習はオーダー順に一人十球程度の打撃練習に江口が投げることである。一番センター柴山。二番レフト真田。三番ファースト司馬。四番サード長岡。五番ライト末吉。六番ショート白江。七番キャッチャー林。八番セカンド井上という順である。その指示を聞いただけで江口の背中は冷や汗でびっしょりになり、顔面が青白くなっているのを自覚した。
そんな江口の背中から
「公式戦じゃねぇんだから、もっと気楽になれ!いつもブルペンで投げてるように投げりゃいいんだよ」
と声がした。驚いて振り向くと、そこには一軍昇格したばかりの新山がいた。二軍では江口に挑発的な態度を取り、江口にとっては苦手がタイプだったが、根は善人なのだろう。軽く握り拳を作って口の動きだけで「がんばれよ」とメッセージを送ってきた。この新山の仕草で江口は、ぐっと楽な気分になれた。
一番の芝山は左投手の江口に対して右打席に入っている。一球目は指示通り外角の低めに速球を投げる。柴山のバットは反応したが振り遅れて一塁側にファールとなった。思わず芝山は「あのコースに、あのスピードで決められるとはね。成る程、仮想湯夏にはぴったりだ」と捕手に話しかけた。続けてマウンドの江口に向かって「もう少しスピード上げてもコントロールは平気かい?」と訊いてきた。思わず
「平気です」と直立不動で答えた。その姿が滑稽だったので一軍のナインから笑い声が漏れた。反面、堀本、高岡、山本等の投手陣は鋭い視線で江口を見つめた。とりわけ左のエース高岡は江口を意識しているようだ。そこを承知している堀本は
「おい一三。日本でスクリューボールを投げられるピッチャーが二人いるとは、お前も驚いたんじゃないか?」
「むぅ…。だが悔しいけど恐れ入ったね。去年まで高校生だった少年がスクリューボールの行き先までコントロールしてるとは…確かに怪物投手だ」
「ちょっと待て!お前もスクリューボールの使い手だが、ボールの行き先まではコントロールできないってことか?」
「ちょっと堀さん。同じピッチャーなんだから素人みたいなこと言わないでよ。堀さんだってカーブやチェンジアップ投げる時に、これはボール球でいい。これはストライクに入れようって思って投げてるの?」
「チャンジアップは、ほとんどボールだろうなぁ。狙ってストライクは取れないよ。カーブは狙うことは狙う」
「スクリューもチェンジアップも似たボールですよ。低めぎりぎりのストライクを狙って投げられるもんじゃない。だけど…何だろうな。芝山も気持ち良く打ってるが、凄く打ちやすそうに見えるんだ」
「一三の言う通りだ。チャンジアップ、フォークボール、シンカー、スクリュー、ナックル…こういう球種は投げたピッチャー本人も、どこにボールが行くか分らない。それが打者にとっての脅威になると思うんだ。この江口ってピッチャーは、何か俺たちとは違うところがある。それが何なのか?は俺も一三と一緒で分らんが…」
一球目こそ振り後れた芝山だったが、徐々に江口の速球に合わせ始めた。「ありがとう。いい調整になったよ」と江口を労うと二番の真田に変わった。打率は高くないが三振が少ない。バットにボールを当てる技術は高く相手投手が嫌がるバッターである。真田も一球目はファールになった。だが振り遅れたファールではない。わざとカットされたようなファールである。
「へぇ」真田は明るい表情でマウンドの江口に声を掛け「きれいなボールだな。江口君。直球だけじゃなくて変化球を混ぜてよ。その方が練習になるんだ」と頼んだ。カーブは軽く合わせてくる。決してカーンという良い当たりではないが芝山も真田も空振りをしない。「これが高校野球とプロ野球の差か…」江口は背中に冷たい感覚を覚えた。
バッターは真田から司馬に変わる。すれ違い様に司馬は真田に「どうだ?」と訊いた。「上手いですよ。外角低めにコントロールする技術は凄いですよ。全然ボール球が来ない」と笑いながら真田は説明した。
司馬が左打席に入る。江口にとっては初めての左バッターだ。司馬の右足が高く上がり、どく独特の一本足打法のフォームに入る。まるで司馬に吸い込まれるような威圧感を感じたが、江口は冷静を保って外角低めに速球を投げ込んだ。カーンという金属音がしてボールはライトの柵を越えていった。
ヘッドコーチの牧場が監督の河村の顔色を伺う。河村の表情は渋い。
「どうしました監督?打線は絶好調じゃないですか?」
「うむ。それは結構だがね。長尾二軍監督から江口君は球速はあるが球威がないと報告を受けた。長尾君にしては変な報告だよ。球速と球威は同じと考えてもおかしくはないが、こうして江口君に打撃投手をやらせてみて、その意味が分ってきた。つい真田が口走った、きれいなボールという表現が全てかもしれん」
「やはり監督の狙いは江口投手でしたか?実際にボールを見てみたかったんでしょう?で…どう見ました?」
「牧場君の方こそ、どう見えたんだね?」
「ボールは速いですが、コントロールが良すぎる印象がありますな」
「やはり!そうか!」
河村は気難しい顔で腕組みをすると、江口の投球フォームに注目していた。