第181話 崩壊の前日●「事情」
文字数 1,951文字
一月ということもあり、帰省している選手もいるが里中の想像以上に寮に残り自主的にトレーニングを行っている選手が多かった。すれ違う選手に挨拶をしながら、まずは唯一の知り合いである江口敏の部屋を探す。「江口敏●淡谷健」と書かれたプレートが見つかった。ノックをしてみた。ほどなく返事があり、部屋から顔を出したのは淡谷だった。一瞬、怪訝な表情をした淡谷だったが、すぐに元由良明訓高校出身の里中繁雄だと気がついた。
「高校時代は負けてもいいから、一度ぐらいは対戦してみたかったんですよ。こうしてチームメイトになれたのは本当に光栄です!」
「止めてください。淡谷選手は先輩じゃないですか!俺は一年遅れの後輩なんで、そのつもりで付き合ってください。ところで江口選手は?」
と里中が訊いたところで淡谷の表情が曇った。どう説明しようか悩んでいるようだ。
「そうですよね…。里中選手のいた由良明訓高校と江口君のいた岐阜青雲大学付属高校は甲子園で何度も名勝負を繰り返した好敵手ですからね。僕らも同学年の憧れでしたよ。やっぱり江口君のことは気になりますよね?」
「江口選手がライバルとして見ていたのは俺じゃなくて田山や岩城だったんだろうけどね。俺は投手としても打者としても相手にされてなかったんじゃないかな?でも、やっぱり最後の夏の大会では宿舎も同じだったし、両チームが一緒に大浴場を使ったり、宴会場で夕飯を食べたり、憎いライバルというだけじゃない。友達みたいな感覚はあったよ」
淡谷は、それを聞いて何かを決心したようだった。
「実は江口君は今、通院しているんですよ。夕方になれば寮に戻るはずです」
「通院?じゃあ彼は肩とか肘を壊しているんですか?」
「ちょっと言いにくいのですが…隠しておいてもバレることなんで話します。実は精神科で治療を受けているんです」
「精神科!」里中は唖然とした。子供のように天真爛漫とした笑顔で驚くような剛速球を投げ込んできた江口。どんなピンチでも力で切り抜けてきた怪物が精神病を患うとは!
淡谷の説明では、入団直後の松映ロビンスとの二軍戦で江口は外角こそ絶妙のコントロールを決めるが、打者の内角に速いボールを投げられないことが発覚。その後の二軍戦でも、さすがにプロ。外角球を狙い打ちされ首脳陣の信頼と自信を失った。ドラフト二位の大西が淡谷を誘って江口再生計画の練習を発案。長尾二軍監督も賛同し左右両打席に打者を立たせる練習を開始。しかし、その後に大西の頭部に死球を当て、大西を入院させてしまった。
その後、七連覇を決めた祝勝会の帰り。江口の身に何か?が起きた。練習もせずに泣き続け事情を話そうともしない。淡谷が何を訊いても「お家に帰りたい」と繰り返し泣き続けている。困り果てた淡谷は二軍首脳陣に相談。球団はノイローゼと判断し、十二月から精神科での治療を続けている。東京ガイヤンツは、この事実に関して一軍、二軍、首脳陣、関係者。全員に口外しないように厳命しているとのことである。
「その祝勝会の夜なんだけど、国電御茶ノ水駅前で道路に突っ伏して泣きじゃくる江口の姿を目撃されているんだ。それに、この寮の近くでも江口が何故かパトカーに乗せられて戻ってきている。何があったのか?同室の僕にも話してくれないんだよ。マスコミは、すでに何か異変があったと探っている」
「祝勝会で飲みなれないお酒を飲んで酔っ払ってしまったとか?では?」
そういう里中に淡谷は首を横に振った。
「ガイヤンツは、そういうことに厳しいんだ。普通、お酒と煙草は二十歳で許されるけど、ガイヤンツでは二十二歳まで禁止されている。陰で、こっそり煙草を吸った選手が二軍落ちさせられたり、厳罰を食らうのは当たり前なんだよ。たぶん、これから入寮者には説明があると思うけど、マスコミに江口君の事を訊かれたら、肩に小さなヒビが見つかって治療中だと答えるように決められている。ガイヤンツの選手。しかも甲子園の優勝投手がノイローゼなんてことが知れたらマスコミのネタだからね」
「ふぅむ…」里中は唸った。里中の想像以上に江口敏の状態は悪かったのである。