第189話 栄光の片隅で●「期待と課題」 

文字数 2,765文字

 1972年のプロ野球も開幕した。八年連続優勝を狙う東京ガイヤンツでは少々の人事異動があった。これまで河村監督の頭脳と呼ばれていた牧場ヘッドコーチが古巣中京ドアーズに戻るために退団。変わって長尾二軍監督を一軍ヘッドコーチに昇格させた。二軍には海洋モータースで監督を務めた黒岩が古巣ガイヤンツに戻り、二軍監督に就任した。長岡、司馬、林ら主力のレギュラー選手の平均年齢が三十歳を越え、チームの新陳代謝を求める河村監督の意向により、弱小球団モータースで若手育成を成功させた黒岩を呼び戻したという認識をされていた。
 その内側では「長尾さんと江口敏は剃りが合わない」「江口だけではない。ドラフト上位の新人選手が一向に育たないのは長尾の責任」「期待していた江口敏を事もあろうにノイローゼにしてしまった長尾は監督失格。しかし球団は江口の病状を外部に知られたくないので長尾を形だけ一軍ヘッドコーチに昇格させた」等とチーム内で噂された。
 新たに二軍監督に就任した黒岩は現役時代は遊撃手として活躍した生粋の野手出身者であった。投手出身の長尾とは対照的に投手陣の育成は二軍投手コーチの中川に任せっきりの人物である。里中繁雄にとって幸運だったのはコーチの中川が現役時代の自分と似たタイプの里中を高く評価したことである。
 中川もプロ野球選手にしては軽量で痩身。当時としては珍しいアンダースローからシンカーとカーブを武器に勝利を挙げていった。ブルペンで投げる里中を一目見た中川は
 「ほう…あのホネ。なかなかやるじゃないか!」と感心した。「ホネ」とは「骨と皮だけの細い身体」という意味もあるが「骨のある奴」という意味も込められている。前年度のドラフトでは里中を含めて四人の投手が入団しているが、その中で抜きん出た逸材と評価した。中川は二軍投手コーチを四年ほど任されていたが二軍監督の長尾が投手出身であったため、若手投手陣の育成方法は長尾の指示に従っていた。中川にとって長尾の存在はストレスの原因だったのである。長尾が一軍ヘッドコーチに昇格。代わった黒岩は投手陣に興味ナシというガイヤンツ二軍の新体制は中川が思う存分、若手投手の育成を出来る。願ったり、適ったりの状況であった。
 長尾はアマチュア時代に不得手にしていたことを克服させることを若手の育成と考えていたのに対して中川は不得手なら不得手なままでいい。逆に得意なことを伸ばして不得手なことを帳消しにしてしまいなさいという方針である。長尾の江口敏に「外角だけじゃプロのバッターは討ち取れない!内角を攻められるようになれ!」と口うるさく指導するのを横目で見ながら、中川は「内角に投げたくないなら、投げなければいい。真ん中から外角。高低と緩急を意識すれば、プロで通用しないピッチャーじゃない。危なっかしければ、もう一つ球種を増やせばいい。パームボールとかチェンジアップなら、すぐにマスターするだろう」と考えていた。
 里中繁雄に対しては牽制球が下手という欠点が入団直後に暴露された。長尾は「ランナーを一塁に釘付けにしろ!牽制球が投げられないようではプロでは通用せんぞ!」と言っていたのに対して中川は「僕の現役時代も、そうだがアンダースローやサイドスローの投手にとって牽制球は投げにくい。ランナーから見て牽制をしてきそうな雰囲気を出すように意識しよう。君は高校時代には俊足の外野手も経験しているから、ランナーにとって走りやすい雰囲気。走りにくい雰囲気というのは感じていたはずだ。だいたい盗塁を警戒されるような一塁ランナーを牽制球でアウトに出来るんなら苦労はしないよ。二塁、三塁にランナーがいる場面で、しっかり三振が取れるピッチャーになることだ」と言ってきた。里中としては、かなり気楽になれたものである。
 しかし、そんな中川でも深刻な悩みがある。江口敏の処遇である。幾多の若い選手を指導してきた中川でもプロ野球に入ってくるような猛者からノイローゼ患者を出してしまうとは想像もしていない。しかも球団は江口の解雇は望んでいない。出来ることならば江口にノイローゼを克服させ一軍の一角で通用するピッチャーに育てることが理想である。しかし根っから自信喪失してしまったピッチャーを再生させるのは容易なことではない。と言ってイースタンリーグも始まろうという時期に江口に何もさせないのも不自然である。
 そんな中川に助け舟を出したのは黒岩だった。
 「わしは、こっち来たばっかりで事情は知らんのだが、江口選手は、投げられる状態じゃないんだろう?だったら、物は試しで野手側の練習に組み入れてみたいいだが?」
 「野手側ですか?河村監督からは、あくまで左投手で…と言われてますが…?」
 「それは、そうだが…もしクリーンナップを打てる強打者を育てたら、カワさんだって怒りゃせんだろう。ピッチャーだって左は貴重だが、バッターも左は貴重よ。モータースの監督の時は左打者がおらんので泣かされたわ」
 「そうですねぇ。野手の練習をすることで江口選手にとって気分転換になればいいかもしれんですな」
 「頼むわ!中川コーチ。いろいろ調べたが彼は高校時代のバッティングもいい。かわさんに何か言われたら、わしが勝手に江口を野手に引き込んで困っているとか答えときゃいい」
 黒岩は河村監督の現役時代は同期入団。共にガイヤンツ第二期黄金時代のレギュラーだっただけに遠慮がない。海洋モータース監督時代には「司馬シフト」を考案してガイヤンツを苦しめた。極端に内外野手をセンターラインからライト線に固める「司馬シフト」は現在ではガイヤンツ以外の全球団が敷く特殊シフトになった。今シーズンからガイヤンツに出戻ったのも、それらの功績が認められている証拠である。
 「黒岩さんが、そう言ってくれるなら、私は何も言いませんよ」と中川は快諾すると、基礎練習中の江口に声を掛けた。「おい!江口君。しばらく黒岩監督のところで打撃練習だ!」
 言われた江口はポカーンと口を大きく開けて呆けた顔をしている。
 「はぁ…打撃練習ですか?」
 唖然とする江口の肩を黒岩が叩いた。
 「わしはガイヤンツに戻ってきたばかりで詳しいことは知らん。だがのぉ。江口君がピッチャーとして何か壁にぶつかっておるのは、わしにも痛いほど判る。別に今すぐ野手に転向しろと言うんじゃないよ。ピッチャーはバッターと勝負するのが野球じゃ。当たり前の話。バッターの経験をしておいてピッチャーに戻るのも悪くない。うちじゃ堀本。引退した金山さん。タイタンズの湯夏。名投手は実は強打者というもんよ。とりあえずピッチングから離れてみろ!」
 いささか神経質な長尾と対照的に豪快な黒岩二軍監督の就任で、ガイヤンツ二軍の雰囲気は大きく変わろうとしていた。
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

河村監督●東京ガイヤンツ九連覇を成し遂げる大監督。当初、痩身の里中を疎んじていたが、徐々に、その闘志と技術を認めていく。選手とは、あまり話をせずに腹心の報告によって対応する。管理野球の申し子。

長尾●ガイヤンツの二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍投手コーチと人事異動の多い河村の腹心。無愛想で口うるさい人物のため選手には嫌われている。江口敏を死に至らしめた一因は自分にあると自責しており、里中に期待をかける。

黒岩●ガイヤンツ二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍守備走塁コーチ。もともとガイヤンツOBだが一時期は広島の海洋モータースの監督を務めた。長尾とは正反対の親分肌の人物で選手から好かれているが、采配には疑問が残る。投手として入団させた人材を野手に転向させたがる傾向がある。

藤井●ガイヤンツ一軍投手コーチ、二軍監督。現役時代はガンジーと呼ばれる痩身のエース。そのため似たタイプの里中に目を掛けている。褒め殺しで投手を乗せる性格は選手に人望があるが、それ故、河村や長岡に疎まれてガイヤンツを退団する。

中川●ガイヤンツ二軍投手コーチ、現役選手よりも若いため若手選手の兄貴分のような存在。河村からも信頼を受けており、人事異動の多い組織の中で定位置をキープしている。

牧場●現役時代は中京ドアーズの内野手。英語が堪能でメジャーリーグの文献を研究しているため河村の声でガイヤンツのヘッドコーチに就任。一時期は守備走塁コーチに降格したが、その堅実な作戦は常勝軍団の頭脳と判断され、再びヘッドコーチに戻る。

長岡●六大学野球から鳴り物入りでガイヤンツ入りしたスーパースター。河村の勇退後の監督に内定しており、現役晩年は衰えを見せながらも最後の最後まで燃える男の真骨頂を見せる。

司馬●元甲子園優勝投手だがガイヤンツ入団と同時に打者へ転向。当初は伸び悩んだが、荒井打撃コーチの指導により一本足打法を開眼させ世界的なホームラン打者になる。長岡より五歳年下ということもあり、九連覇末期に、その打撃技術は円熟に達する。

堀本●紳士的なガイヤンツの選手の中で、あえて悪太郎という不良キャラクターを演じるエース。プライドと強気のピッチングが魅力。

高岡一三●堀本が右投手のエースなら、こちらは左のエース。性格も、どちらかというと陰気な真面目人間。堀本とは不仲なふりをしているが裏では大の仲良し。気が弱いのが弱点。

林●ガイヤンツ黄金時代のキャッチャー。陰険でケチ、投手はもちろん選手からは嫌われているが河村には絶対的な信頼されている。巧みなインサイドワークとポーズとしての弱気で相手を騙す。グラウンドの司令塔。

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