第189話 栄光の片隅で●「期待と課題」
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その内側では「長尾さんと江口敏は剃りが合わない」「江口だけではない。ドラフト上位の新人選手が一向に育たないのは長尾の責任」「期待していた江口敏を事もあろうにノイローゼにしてしまった長尾は監督失格。しかし球団は江口の病状を外部に知られたくないので長尾を形だけ一軍ヘッドコーチに昇格させた」等とチーム内で噂された。
新たに二軍監督に就任した黒岩は現役時代は遊撃手として活躍した生粋の野手出身者であった。投手出身の長尾とは対照的に投手陣の育成は二軍投手コーチの中川に任せっきりの人物である。里中繁雄にとって幸運だったのはコーチの中川が現役時代の自分と似たタイプの里中を高く評価したことである。
中川もプロ野球選手にしては軽量で痩身。当時としては珍しいアンダースローからシンカーとカーブを武器に勝利を挙げていった。ブルペンで投げる里中を一目見た中川は
「ほう…あのホネ。なかなかやるじゃないか!」と感心した。「ホネ」とは「骨と皮だけの細い身体」という意味もあるが「骨のある奴」という意味も込められている。前年度のドラフトでは里中を含めて四人の投手が入団しているが、その中で抜きん出た逸材と評価した。中川は二軍投手コーチを四年ほど任されていたが二軍監督の長尾が投手出身であったため、若手投手陣の育成方法は長尾の指示に従っていた。中川にとって長尾の存在はストレスの原因だったのである。長尾が一軍ヘッドコーチに昇格。代わった黒岩は投手陣に興味ナシというガイヤンツ二軍の新体制は中川が思う存分、若手投手の育成を出来る。願ったり、適ったりの状況であった。
長尾はアマチュア時代に不得手にしていたことを克服させることを若手の育成と考えていたのに対して中川は不得手なら不得手なままでいい。逆に得意なことを伸ばして不得手なことを帳消しにしてしまいなさいという方針である。長尾の江口敏に「外角だけじゃプロのバッターは討ち取れない!内角を攻められるようになれ!」と口うるさく指導するのを横目で見ながら、中川は「内角に投げたくないなら、投げなければいい。真ん中から外角。高低と緩急を意識すれば、プロで通用しないピッチャーじゃない。危なっかしければ、もう一つ球種を増やせばいい。パームボールとかチェンジアップなら、すぐにマスターするだろう」と考えていた。
里中繁雄に対しては牽制球が下手という欠点が入団直後に暴露された。長尾は「ランナーを一塁に釘付けにしろ!牽制球が投げられないようではプロでは通用せんぞ!」と言っていたのに対して中川は「僕の現役時代も、そうだがアンダースローやサイドスローの投手にとって牽制球は投げにくい。ランナーから見て牽制をしてきそうな雰囲気を出すように意識しよう。君は高校時代には俊足の外野手も経験しているから、ランナーにとって走りやすい雰囲気。走りにくい雰囲気というのは感じていたはずだ。だいたい盗塁を警戒されるような一塁ランナーを牽制球でアウトに出来るんなら苦労はしないよ。二塁、三塁にランナーがいる場面で、しっかり三振が取れるピッチャーになることだ」と言ってきた。里中としては、かなり気楽になれたものである。
しかし、そんな中川でも深刻な悩みがある。江口敏の処遇である。幾多の若い選手を指導してきた中川でもプロ野球に入ってくるような猛者からノイローゼ患者を出してしまうとは想像もしていない。しかも球団は江口の解雇は望んでいない。出来ることならば江口にノイローゼを克服させ一軍の一角で通用するピッチャーに育てることが理想である。しかし根っから自信喪失してしまったピッチャーを再生させるのは容易なことではない。と言ってイースタンリーグも始まろうという時期に江口に何もさせないのも不自然である。
そんな中川に助け舟を出したのは黒岩だった。
「わしは、こっち来たばっかりで事情は知らんのだが、江口選手は、投げられる状態じゃないんだろう?だったら、物は試しで野手側の練習に組み入れてみたいいだが?」
「野手側ですか?河村監督からは、あくまで左投手で…と言われてますが…?」
「それは、そうだが…もしクリーンナップを打てる強打者を育てたら、カワさんだって怒りゃせんだろう。ピッチャーだって左は貴重だが、バッターも左は貴重よ。モータースの監督の時は左打者がおらんので泣かされたわ」
「そうですねぇ。野手の練習をすることで江口選手にとって気分転換になればいいかもしれんですな」
「頼むわ!中川コーチ。いろいろ調べたが彼は高校時代のバッティングもいい。かわさんに何か言われたら、わしが勝手に江口を野手に引き込んで困っているとか答えときゃいい」
黒岩は河村監督の現役時代は同期入団。共にガイヤンツ第二期黄金時代のレギュラーだっただけに遠慮がない。海洋モータース監督時代には「司馬シフト」を考案してガイヤンツを苦しめた。極端に内外野手をセンターラインからライト線に固める「司馬シフト」は現在ではガイヤンツ以外の全球団が敷く特殊シフトになった。今シーズンからガイヤンツに出戻ったのも、それらの功績が認められている証拠である。
「黒岩さんが、そう言ってくれるなら、私は何も言いませんよ」と中川は快諾すると、基礎練習中の江口に声を掛けた。「おい!江口君。しばらく黒岩監督のところで打撃練習だ!」
言われた江口はポカーンと口を大きく開けて呆けた顔をしている。
「はぁ…打撃練習ですか?」
唖然とする江口の肩を黒岩が叩いた。
「わしはガイヤンツに戻ってきたばかりで詳しいことは知らん。だがのぉ。江口君がピッチャーとして何か壁にぶつかっておるのは、わしにも痛いほど判る。別に今すぐ野手に転向しろと言うんじゃないよ。ピッチャーはバッターと勝負するのが野球じゃ。当たり前の話。バッターの経験をしておいてピッチャーに戻るのも悪くない。うちじゃ堀本。引退した金山さん。タイタンズの湯夏。名投手は実は強打者というもんよ。とりあえずピッチングから離れてみろ!」
いささか神経質な長尾と対照的に豪快な黒岩二軍監督の就任で、ガイヤンツ二軍の雰囲気は大きく変わろうとしていた。