第157話 覚醒と崩壊●「鋭い眼光」

文字数 3,230文字

 練習試合とは言えノンプロの強豪明治石油に勝った全丸大は七月に控える都市対抗戦東海地区予選に向かって練習が始まっていた。高山と並んで投球練習を始めた里中だが、背中に誰かの鋭い視線を感じた。ふと振り返るとフリースカウトの八木に、もう一人目つきの鋭い中年男性がいるのに気がついた。
 「知らない顔の人だが、この年齢で、この体格。間違いない。元は選手だ」と里中は確信した。一瞬「どこの球団だ?」と思ったが、早合点は禁物である。ノーコンとは言えエース高山を目当てに来たスカウトかもしれない。「声をかけられるか?」と思ったが、その男は真剣な顔で下川や八木と話している。
 練習アップのランニングが終わったのを見計らって八木が声をかけた。
 「里中君。久しぶりだね。こちら東京ガイヤンツのスカウト部長岩田さんだ」
 「え…ガイヤンツの…」
 さすがの里中も驚いた。まさか天下の東京ガイヤンツが自分に注目しているとは夢にも思わなかったのだ。
 「岩田です。他の選手にも、こんなむさ苦しい見学者がいては申し訳ないと思ったんだが、社会人野球チームの貴重な練習時間を削っては申し訳ないのでね。最後まで見させてもらったよ。今年の全丸大は、なかなかいいじゃないか?」
 「さすがは盟主ガイヤンツですね。アマチュアのチームでも練習を中断させない姿勢はチームを尊重してくれていて素晴らしいと思います」
 岩田はニヤリと笑った。
 「もし時間があるようなら、この八木君。下川君に君。よければ高山君も含めて夕飯でも食べないか?高校生と違って問題にはならんだろう?」
 高山は冷静な表情で
 「八木さんも岩田さんもご存知でしょうが、自分は今のところプロ入りの意志はないです。それで良ければお話だけは聞かせていただきます」きっぱりと言った。やはり、あれだけの剛速球の持ち主だ。高校卒業時にもプロ入りの打診はあったらしい。八木は苦笑しながら、
 「相変わらず頑なな男だな。まぁ、そこが高山君の魅力だが」
 と呆れていた。そんなやり取りを横目にしつつ里中が荷物をまとめ、そのスポーツバッグを持ち上げようとすると
 「里中君。右投手が右腕で重い荷物を持ってはいかん。それに、そのバッグを肩にかけるなら左肩にかけなさい」
 と厳しい表情で岩田が注意した。里中にとって、そんな注意を受けたのは初めてだった。本格的に野球を始めたのは由良明訓高校に入学後。織田も土井も良い指導者だったが確かに投手経験者ではない。そう言えば高校二年の時に後輩の浜から「里中さんって右肩に荷物を掛けめすよね。平気なんですか?」と訊かれたことがある。その時は後輩の言うことだし、右利きだから右肩の方が持ちやすいと思っていたので「平気だよ」」と答えて終わった。
 傍らの高山を見ると、なるほど左肩にバッグを担いでいる。
 「ピッチャーにとって利き腕は命だ。その利き腕を大事にしなさい。里中君も知っているだろう。四百勝投手の金山君は無類の酒好きだが、飲みに行く時には必ず利き腕の左腕にバスタオルを巻いていた。グラスを持つのも右手を使った。髭を剃る時もカミソリは使わない。必ず電気ヒゲ剃りを使った。そうやって利き腕を大切にしたものだ」
 里中繁雄にとって初めての衝撃的な忠告だった。松映ロビンスのスカウトにも会ったことはあったが、この岩田のような毅然とした態度で接して来なかった。「そうか…これが球界の盟主、東京ガイヤンツの厳しさか…コーチや監督でもない。一介のスカウト部長がアマチュアの選手に厳しく注意する。憎たらしいように強いチームだが、この厳しさが強さの秘訣か…」と内心、感心した。
 高山は苦笑いをしながら
 「ま…俺も高校の時に先輩に注意されて利き手でバッグは持たないようにしてるだけだがな。考えてみりゃ硬式用グローブ、スパイク、ユニフォーム…けっこうな重さだ。いくらピッチャーでもバットの数本は持ち歩く。毎日毎日、その重いバッグが肩の血行を妨げる。こういうことを意識するだけで選手生命が変わってくるんだな」
 「いや…俺も先輩ではなく後輩の浜に言われたことがあるんだ。だが俺に遠慮してたんだろう。浜は、あまり厳しい言い方をしなかった。それで俺も聞き流してしまったんだよ」
 監督の下川も
 「やはりピッチャーというポジションは他のポジションと大きく違うものなんだなぁ。全丸大も投手経験者をコーチとして雇っておかないと、いかんなぁ。何せ私は野球の専門家ではないもんでね」
 岩田は恐縮する下川を遮って
 「いやいや…下川さんの指導が間違っているという訳ではない。これがプロとノンプロとの意識の違いなのだ。私はガイヤンツのことしか知らんが、そんな事細かなことに厳しいのチームは日本では東京ガイヤンツだけかもしおれない。どうだろうね?八木君」
 「はぁ…徐々にガイヤンツのような選手管理方法が浸透している途中という感じがしますね。近畿リンクスの村野監督なんかは河村監督信者なんで、真似はしているようですが」
 岩田に言われて八木が頭をかきながら答えている。八木がこんなに恐縮しているのを見るのは里中も初めてだった。やがて五人は下川の案内で鳥料理の店で夕食を食べながら歓談するはこびとなった。
 岩田は、まず里中よりも高山に尋ねた。
 「君は再三のプロ入り打診を断り続けているが、その理由は?」
 「そりゃノーコンですよ。俺自身も何もしていない訳ではないです。下半身を強くして少しでもコントロールを良くしようと努力はしてます。けれど球速というか俺の場合はボールの迫力ですね。これは諦めたくないんです。良い時はノーヒットノーラン。悪い時は四死球で自滅。これが俺なんですよ。完全試合と言わなかったのは俺にとって無四球試合なんて夢のまた夢ですからねぇ」
 「それだけ自分で自分のことが分っているならいい。君がプロ入りしてもいいと自分で思った時に意思表明したまえ」
 「ええ。そうしますよ。その良い時と自滅のバランスで良い時の方が上回った時には、自分を雇ってくれる球団のお世話になります」
 岩田を筆頭に八木と下川はビールを飲んでいたが高山は、そのいかつい顔に似合わずオレンジジュースで付き合っている。里中は「高山さんは、いつかプロ入りという意識はしているはずだ。ノンプロで満足しているならば全丸大の他の選手と同じように酒も飲むだろうし煙草も吸うはずだ。この人は全丸大を修行の場と考えている。その点では俺と同じか…」と納得した。
 「さて…実は私は去年の夏の決勝戦には、この八木君と一緒に由良明訓高校対岐阜青雲大学付属高校戦を観戦していたのだよ。私個人の意見としては江口投手ではなく君を指名すべきだと河村監督に進言したのだ」
 岩田の告白は里中にとって衝撃的なことだった。田山、岩城、馬場に比べ一番、野球が下手で評価されていない選手が自分だと思っていた。それが、よりによって天下の東京ガイヤンツのスカウト部長が自分に注目してくれていたのである。
 「まぁ案の定、却下されたよ。理由は細すぎる身体。それに外野手兼任投手という部分だな。どうしても、そのチームの絶対的なエースを首脳陣は欲しがる。甲子園大会はプロ野球チームにとってペナントレースの大切な時期だ。優勝争いに神経を削る河村監督は新聞での結果しか見ておらんのだ。君のピッチングを見ておれば、また考え方も変わったと私は信じている」
 下川がポンと里中の背中を押した。
 「うちは構わんぞ。全丸大から東京ガイヤンツの選手が出たら、うちも有望な選手を集めやすくなる。こんな早い時期に声がかかるならばドラフト外入団も私は許可する」
 「いや…でも、ここまで待遇を良くしてくれた全丸大に俺なりにお返しはしたいです。ノンプロ選手になった以上は都市対抗にも出てみたい。それに今は、このチームが好きなんです」
 岩田はビールを口に運びながら、ポツリと
 「その意気や良し」とだけ言った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

河村監督●東京ガイヤンツ九連覇を成し遂げる大監督。当初、痩身の里中を疎んじていたが、徐々に、その闘志と技術を認めていく。選手とは、あまり話をせずに腹心の報告によって対応する。管理野球の申し子。

長尾●ガイヤンツの二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍投手コーチと人事異動の多い河村の腹心。無愛想で口うるさい人物のため選手には嫌われている。江口敏を死に至らしめた一因は自分にあると自責しており、里中に期待をかける。

黒岩●ガイヤンツ二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍守備走塁コーチ。もともとガイヤンツOBだが一時期は広島の海洋モータースの監督を務めた。長尾とは正反対の親分肌の人物で選手から好かれているが、采配には疑問が残る。投手として入団させた人材を野手に転向させたがる傾向がある。

藤井●ガイヤンツ一軍投手コーチ、二軍監督。現役時代はガンジーと呼ばれる痩身のエース。そのため似たタイプの里中に目を掛けている。褒め殺しで投手を乗せる性格は選手に人望があるが、それ故、河村や長岡に疎まれてガイヤンツを退団する。

中川●ガイヤンツ二軍投手コーチ、現役選手よりも若いため若手選手の兄貴分のような存在。河村からも信頼を受けており、人事異動の多い組織の中で定位置をキープしている。

牧場●現役時代は中京ドアーズの内野手。英語が堪能でメジャーリーグの文献を研究しているため河村の声でガイヤンツのヘッドコーチに就任。一時期は守備走塁コーチに降格したが、その堅実な作戦は常勝軍団の頭脳と判断され、再びヘッドコーチに戻る。

長岡●六大学野球から鳴り物入りでガイヤンツ入りしたスーパースター。河村の勇退後の監督に内定しており、現役晩年は衰えを見せながらも最後の最後まで燃える男の真骨頂を見せる。

司馬●元甲子園優勝投手だがガイヤンツ入団と同時に打者へ転向。当初は伸び悩んだが、荒井打撃コーチの指導により一本足打法を開眼させ世界的なホームラン打者になる。長岡より五歳年下ということもあり、九連覇末期に、その打撃技術は円熟に達する。

堀本●紳士的なガイヤンツの選手の中で、あえて悪太郎という不良キャラクターを演じるエース。プライドと強気のピッチングが魅力。

高岡一三●堀本が右投手のエースなら、こちらは左のエース。性格も、どちらかというと陰気な真面目人間。堀本とは不仲なふりをしているが裏では大の仲良し。気が弱いのが弱点。

林●ガイヤンツ黄金時代のキャッチャー。陰険でケチ、投手はもちろん選手からは嫌われているが河村には絶対的な信頼されている。巧みなインサイドワークとポーズとしての弱気で相手を騙す。グラウンドの司令塔。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み