第212話 苦戦●「エースの貫禄」
文字数 4,552文字
ヘッドコーチが昨年まで二軍監督だった黒岩が就任したことは里中ら若手にはやりやすい。投手コーチは藤井である。二軍投手コーチの中川が若手投手一人一人のプライベートな相談に乗る兄貴分みたいな人物であったのと対照的に藤井は若手もベテランも大人として扱う。「よ!エース。今年も二十勝越えるな」とか「おう!移籍組。ちゃんと飯食ったか?ガイヤンツの飯は前のチームより美味いだろ」「今のカーブはタイタンズの小淵沢でも打てないな」などと声をかけて歩く。すれ違い様に「よ!頼むぞ!」などと言いながら選手の尻をポンと叩く。
二軍上がりの里中に対しても「上がってきたな色男!若い女の子のファンが増えれば、俺ら親父連中の励みになるからな!しっかり頼むぞ!」と声を掛けられた。藤井も現役時代は「ガンジー」とあだ名される痩身のピッチャーだった。そのせいか里中の体重不足は問題視しなかった。「身体の大きい選手は夏場にスタミナ不足になる。お前は、それでいい」と指示した。
怒鳴って殴って鍛え上げるというタイプではない。むしろ褒めて伸ばすコーチだ。もっともガイヤンツの二軍で鍛えられているなら全員を即戦力として気持ちよくマウンドへ送り込むというのが藤井の采配のようであった。
ブルペンではエース堀本の練習にレベルの違いを感じた。ストレートはホームベース手前で一瞬、浮き上がるように見える。「堀本カーブ」という大きく縦に落ちるカーブは、まるでボールが生き物のように感じた。悪太郎の異名を持つ豪快な堀本に対して左のエース高岡一三は神経質な真面目人間という印象があった。新品の練習ボールでも硬式ボールには個体差が若干ある。少しでも投げにくいと「ボールを変えてくれ」と要求する。里中にとっては高校時代の後輩、二本松に似たいかり肩体型だが、圧倒的に違うのは全身のバランスの良さだ。鍛え上げた下半身の安定感には感心した。
ブルペン捕手にも限りがある。里中ら若手が投球練習を始めるのは堀本、高岡らエース組。新山ら中堅投手組が投げ終えてからである。とっくに昼食は終わり、午後三時を過ぎてからである。主力選手は軽いアップ運動をやっている頃、ようやく投げ始めた。二軍上がりは里中と同期入団の館山だけ、ロビンスから高岡善正というベテランが移籍してきた。年齢は上でもガイヤンツの外様は若手扱いとなる。奇しくもガイヤンツ投手陣は高岡が二人になった。高岡一三は「かずみ」高岡善正は「よしまさ」と呼ばれる。移籍組は若手扱い…この暗黙の序列が理解できないと、この球団ではやっていけないのだ。
軽い投球で肩を温め、徐々に全力投球に入っていくと里中は背中に鋭い視線を感じた。新山、堀本、高岡一三ら主力投手陣がブルペンの後方から見つめている。
「あいつか?荒井さんのとこで一本足投法なんてのを覚えてきたのは?」「おい新山。確か、お前は甲子園決勝で投げ合ってんだよな?あんなのに負けたのか?」「ふ~ん。サイドにしちゃ速いな」等と言う話し声が聞こえる。内緒話なんてレベルじゃない。褒め言葉でも悪口でも聞こえるように話している。本人が、そこにいようが「あれじゃ駄目だな。二軍行きだ」などという声も混じっている。
里中は「先輩達、俺にプレッシャーをかけているな。生憎だが、俺は高校の時から口汚い野次には慣れてるんだ。さぁ言うだけ言ってくれ!」という気分になってきた。ノンプロの時は、もっと下品な野次も相手のベンチから飛んできた。その度に「敵さん焦ってやがる。俺の調子を崩そうと必死だな」と思い込んだ。逆に野次が多ければ多いほど「今日は、いいボールが行ってるな」と自信を持つようにした。
ブルペンキャッチャーが球種の確認に来た。「変化球は何がある?」「シンカー、カーブ、それにシュートですね」キャッチャーは頷くと「それじゃ適当に混ぜてくれ」と言う。「サイン決めなくて大丈夫ですか?」と確認したが「適当に捕るから平気だよ」と平然と言われた。
里中は「パスボールされるかな?」と思いながらもノーサインで変化球を混ぜた。二軍でマスクを被っていた矢口は他のピッチャーの相手をしている。一軍のベテラン林でも二番手の吉岡でもない。ガイヤンツでは四番手以降のキャッチャーだ。だが、このキャッチャーはパスボール等しない。長年組んだバッテリーのようにスパンスパンと受けている。
「凄い…。これがプロか…」と里中は驚いた。それと同時に変化球を投げ始めたら、先輩達の視線が変わってきた。「あのホネ。なかなかやるじゃないか」「あのシンカーがありゃ右打者は確実にアウトに取れるな」と言われ始めた。調子良く投げていると
「初日だ。そのぐらいにしておけ」
と声を掛けられた。誰かと思ったらエースの堀本だった。ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま、堀本は里中に近づいてくる。思わず里中も頭を下げた。
「一軍投手陣のリーダーは俺だ。判らないことがあったら、俺か一三さんに訊け。八連覇達成と言ってもガイヤンツは点の取れるチームだ。むしろ投手陣は毎年苦しい状態で、なんとか勝ち抜いている。里中や善正さん。館山にも頑張って貰わないと九連覇は難しい。頼むぞ!」
とだけ言って引き上げた。強心臓の里中だが、初めてまともに堀本に話しかけられて、かなりの緊張をしていた。合同練習やファン感謝デーで会ってはいたが、まともに口を利いてもらうのは初めてのことだった。「ようやくガイヤンツの一員になれたのか…」そんな気持ちになった。後から高岡一三も言葉少なめに「頑張れよ。頼むぞ!」と里中に声をかけた。
少し遅れて「よぉ。ようやく上がってきたな」と声をかけてきたピッチャーがいた。里中が誰かと思ったら新山だった。里中らが由良明訓高校一年の時に夏の甲子園決勝戦で当たった静岡工業のエースである。新山も一年生エースとして注目されていたが、実は定時制から全日制の編入をしているので里中らより一歳年上だった。韓国籍でもあり、ガイヤンツがドラフト外で外国人扱いで獲得したことで物議を醸し出した。
「新山…先輩」思わず里中が口走った。里中の脳裏には初めて出場した甲子園大会の決勝戦での新山のイメージが焼きついている。「一年生ピッチャー同士の投げ合い」と呼ばれたため、試合中は同い年だと思い込んでいたのである。ガイヤンツの入団も新山は三年早い。「先輩」と呼ぶのが常識だが、どうしても対戦時のイメージで同級生という感覚が払拭できないのだ。
この里中の取ってつけたような「先輩」に新山は爆笑した。
「俺に対しては、そんなに先輩扱いしなくてもいいよ。三年遅れで同級生が追いついてきてくれたって感じだよ。それにしてもお前らは強かった!一番岩城、二番馬場、三番土井、四番田山…。敬遠も出来ない打線だったよ。あのチームから四人もプロ入りした。当然だと思う。そう言えば馬場君はプロに来ないけど、彼はどうしているんだ?」
「馬場は野球は高校までと決めていたんですよ。あいつはピアノもギターも上手い。絵を描かせても凄い。馬場は帝国芸術大学に入学して東京にいるんです。入院中の江口を見舞うために久しぶりに集まったんですが、俺も驚きました。アメリカのロックミュージシャンみたいに髪を伸ばして、雰囲気が全然変わってましたよ」
「へぇ。馬場君は、そういう男だったのか!静岡工のベンチでは、あのセカンドには打つな!って言うほど守備は上手かった。バッティングも上手い。ともかく空振りしないんだ。俺は投げていて泣きそうになったよ」
暫く里中と新山は甲子園の思い出話をしていた。一回だけの甲子園出場。高校中退でプロ入りした新山にとって、忘れがたい思い出になっていたようだ。
「俺は先にプロ入りして、お前らの先を走っていたつもりだった。でも二年後には江口が入ってきて、三年目には里中が入ってきた。いつも江口と里中に後ろを追いかけられているような気がするよ。ところで江口の話なんだが、俺が一軍に昇格できてから、あいつが入ってきたから、俺は事情が判らないんだ。なんか二軍で大変なことになっているようだけど、何か知っているんだろ?」
「えぇ。世田谷の大きい病院に入院中です。俺としては病気を克服してグラウンドに戻ってきて欲しいんですけどね…」
「俺だって、そうだ。同じサウスポーということで江口に比べられて格下扱いされてきた。だから、あいつがガイヤンツに入ってきた時に、俺はお前には負けないぞ!って態度を取ってしまった。二年も先にプロ入りしてて、後から来た江口が先に一軍昇格されちゃ、俺だって嫌だ。背番号も19番。球団が、どんなに江口に期待してたか分る。逆に言えば江口がいたから、俺は踏ん張れたんだ。俺達、韓国人は普通に生きていたら日本人に嫌われる。静岡にいた頃には石を投げつけられたこともあった。それを跳ね返すには、この世界で頑張るしかない。ようやく…だよ。俺に石を投げてきた日本人が新山やれ!やれ!って声援を受ける。もちろん打たれた時には、お前なんか朝鮮に帰っちまえ!って野次られるけどな。でも、こうやってガイヤンツの一軍にしがみついていられるのは江口のお陰でもあるんだ」
「俺、覚えてますよ。ファン感謝デーで滅多打ちされた江口を見て、肩慣らしもしてないのに新山さんが俺が出る!と言ってくれた。あの時は俺は対戦チームの先発だから、どうすることもできなかったけど、良かった。俺と同じ気持ちの人がいたんだ!と思いましたね」
「あぁ。甲子園では、あれだけ輝いていた江口を、これ以上、晒し者にしちゃいけない!ってね。何でもいいから出ていかなきゃ!って思ったんだ。それにピッチングも想像以上にお粗末だった。一体?どうしたんだ?怪我をしたって聞いてたけど、ここまで悪くならないだろ?ってね。バッター連中も焦ったんだと思う。でも、あんなピッチャーが打てないということになれば二軍落ち、トレード、最悪の場合はクビだってある。悪気があった訳じゃなくて打たなきゃいけなかったんだ」
「俺も同じですよ。俺も高校時代は江口敏という怪物投手のお陰で、彼に追いつこうと頑張った。あの紅白戦で江口が滅多打ちにされた。その裏の回で俺がマウンドに上がってね。一瞬、二点ぐらい取られれば江口の醜態の印象も変わったかもしれない。でも球団から期待されていない俺が一軍昇格を決定的にするには手を抜いたピッチングは出来なかったんです」
四年前に甲子園で対戦した時の新山は暗く挑戦的な目つきで突っ張ったピッチャーだった。里中としてはガイヤンツで三年過ごした新山が大人の顔になっているのが感慨深かった。たぶん、自分も知らないうちに大人になっているのかもしれない…そんなことを考えた。