第187話 閑話休題12●「あさま山荘事件について」
文字数 1,734文字
断っておくが筆者は左翼思考の持ち主ではない。かといってネトウヨとか、それ以前の右翼でもない。ただ若者達が本気で国家に牙を剥いた。その時代のバイタリティに一種の憧憬は抱く。現在の若者も、言うほど政治に無関心ではないと考えている。ただSNSや動画サイトで罵り合いをしていて、どうなるものか?と思うことがある。
例えば交番を襲撃して巡査の拳銃を奪うという行為は犯罪ではある。しかし何かしらの理想を求めて、その方法を取る訳の解らないエネルギーは評価せなばならないと考える。時代は全く違うのだろうが、体制は常に正しい訳ではない。戦争を止めるために殺し合いをするという矛盾は生じても、現在の野党みたいに口先だけで批判していたも「この人達は議員でいたいだけなのではないだろうか?」と思えてしまうのである。
もう一つは巨人軍V9時代を描いた作品は、どうしても球界だけを描いてしまうのが筆者としては不満だった。東京オリンピックの後、大阪万博を挟んでオイルショックまでの時代は単に高度成長期と呼んで片付けられる単純なものではない。アニメ版「巨人の星」ではオズマがベトナム戦争に徴兵されるエピソードも折り込まれている。「野球だけをやっていればいいという俺達、日本のプロ野球選手とは大違いだな」と星飛雄馬が感心するシーンはなかなか感慨深い。
これもまた描き切れていないが、世界的な動乱は音楽の分野には大きな影響を与えた。少なくとも1972年頃までのフォークソングとは、その後のニューミュージックとは別種類の社会派メッセージソングであったはずだ。メッセージ志向のジョン・レノンと音楽志向のポール・マッカトニーが決別し、ビートルズが解散していくのは、一種の必然があったのではないか?と筆者は考えている。ジョン・レノンの方向性は後にセックス・ピストルズを出現させ、パンクロックへとリニューアルしていく。一方、ポール・マッカトニーの方向性は80年代の巨大産業としてのロックを生み出す。どちらが凄いというものではない。どちらも素晴らしいのだ。
一本足打法から王がホームランを打ち、満面の笑顔で長嶋がファイト剥きだしのプレーを見せたV9巨人は、こんなややこしい時代に日本人を牽引した共通認識であると筆者は評価している。まだサッカーはプロ化していない。大相撲もプロレスもあったが最も人気のプロスポーツはプロ野球であったはずだ。他の趣味では話が合わない者同士が巨人が勝った。負けたで意気投合できるソフトウエアがプロ野球だったと考えている。
別に、全ての日本人が巨人ファンだったと思わない。王、長嶋に不敵な面構えで勝負を挑む阪神の江夏豊に反体制的な魅力を感じる人もいただろう。弱小、大洋ホエールズにいながら得意のカミソリシュートで巨人キラーと呼ばれた平松も同じだ。少年ファンが多く、グラウンドで見せる態度や表情までも管理された巨人V9戦士にはない。ニヒルな魅力が他の球団の選手にはあった。だからこそプロ野球は今では考えられないぐらいに輝いていたのである。
これからプロットはV9時代末期の巨人をモデルにした内容で進めていくつもりだ。ただ登場人物達が順風満帆に人気プロ野球選手になる構想は全くない。V9は確かに歴史に残る偉業ではあるが、その裏で押しつぶされていく人物もいたはずである。年々、巨人入団を拒否する選手も増えてくる。そういったV9の暗部やヒーローが抱える闇を描いていきたいと考えている。自分でも呆れるほどの長文になった。だが、ここからが筆者が描きたい闇の世界の入り口なのである。