第84話 二度目の夏編●「女子マネージャー」
文字数 2,577文字
「下手な練習をするより、由良明訓の試合は観ておけ!」という指導である。朱実とヨーコに背中を押された内川亜紀は天野に懇願し野球部の女子マネージャーに就任していた。天野は織田に相談を持ちかけたところ
「秀才揃いの野球部っていったところで所詮は十六、七の野郎ですからね。金玉ん中は不純な欲望で満ち満ちてるはずでしょう。女が入って、その女の目を気にして張り切るのも悪かないです。新入部員も増えて大所帯になったことだし、内川って娘にやってもらいましょう」
織田の言う通り、グラウンドに女子マネージャーがいることで日頃の練習にも熱がこもってきた。レギュラーから外された二、三年生も腐ることなく頑張っている。
亜紀は試合開始前から二十数名の部員や関係者のために冷たい飲み物を準備していた。麦茶、カルピス、緑茶と三種類を用意して好きな飲み物を手に取れるように配慮した。密かに野球のルールも勉強していた。それまでの亜紀はストライクが三つで三振。アウトが三つでチェンジ程度のルールしか知らなかったのである。
テレビの中央には江口、矢吹が座り、その横にキャプテンの青木が座る。亜紀は矢吹の後ろにいた。少しでも矢吹の近くにいたいと思う心理だっただろう。
「キャプテンは青木先輩だ。だから内川も青木先輩の近くに行ってくれ」
矢吹の言うことは最もだ。だが新入マネージャーの亜紀の目から見ても青雲野球部の実質的なリーダーは矢吹に見えたし、事実、矢吹がリーダーになっていた。真面目で努力家の青木のことは嫌いではない。しかしキャプテンの器になるヒトではないと亜紀は思っていた。何よりも矢吹が自分を遠ざけようとしているのが無性に悲しかった。
試合開始直後に問題のシーンが起きた。広島水産の一番打者武田の空振りしたバットがキャッチャー田山の右肘を直撃したのである。江口はかなり動揺したようで反射的にテレビ画面にしがみついた。
「大丈夫かよ!田山君のいない由良明訓に勝てても何も嬉しくないよ。例え三振に討ち取ったって、いつも僕は負けた感覚なんだ!それに広島水産って強いチームだろ。ここで由良明訓が負けたら…」
うろたえる江口を矢吹は嗜めた。
「いや…この試合で不利になったのは広島水産の方さ。今の空振りや、その後のバットと田山の接触を見る限り、この武田って奴は故意じゃない。ただ観客の中には、わざと狙ったという野次が混じるだろう。それで萎縮するのは広島の連中だ。必要以上にフェアプレーにこだわると思い切ったプレーができなくなる。鍵は、この池田っておチビちゃんだな。なかなかキャッチャー姿が決まってるじゃないか?下手すると俺より上手いぜ」
「でも当たったのは肘だろ?もし骨折とかしてたら二戦目以降出られるか?どうか?」
「まぁ打撲はしているだろうが、大きな怪我をしてないんじゃないか?俺は岩城みたいに柔道の経験はないけど、少年相撲で横綱だったって噂もある。受け身はしっかり取れていた。江口も信じようぜ!田山はタフな野郎だって」
「そうだね。この試合が終わったら、僕は田山君の見舞いに行くよ」
「江口らしいや。そういうのは報道陣にとって美談だから、いいんじゃないか」
亜紀には二人の話が意外だった。これまで青雲が勝ち進んでも必ず由良明訓に負けた。無敵と思っていた天才投手江口敏の剛速球を打ち砕く田山三太郎こそ一般生徒にとって憎き敵であった。それが無二の親友のように田山の怪我を心配している江口。逆に田山の運動神経や体力を信じて安心している矢吹の言葉は意外だった。
「驚いた…二人とも田山選手と親友みたい…。このまま試合に出られなかったら優勝のチャンス…だとか…思わないんだね」
亜紀の問いかけに江口も矢吹も笑った。
「もしプロ野球の世界だとしたら、田山が休んでいる間に出し抜こうとか思っただろうけどね。去年、僕は誰にも打たれる気がしなくて速球ばかり投げていた。そこで岩城君、馬場君、田山君と対戦して同い年で、こんなに凄い選手がいるって嬉しかったんだ。だから打たれても抑えても田山君との対戦は僕の楽しみなんだ」
「内川、俺も一緒だよ。青雲大付属に入って江口と出合って新しい生き甲斐を見つけた。こんな凄ぇ奴となら野球でもやってみようという気になった。例えば去年の大会で優勝とかしてたら、俺は、そこで野球部を辞めていただろう。田山と対戦したことで、こんなところで野球は辞められないと思ったんだ」
亜紀は少し感動した。なぜか涙が出てきた。自分には入っていけない世界に、この二人はいるんだ。
「判ったわ…。江口君と田山選手が矢吹君を変えたんだね」
そこへ
「選手だけじゃねぇぞ!この俺もだ!」
三人が振り返ると監督の織田がいた。
「あの田山、岩城、馬場の三人が揃って入部してきた時のことは忘れやしねぇ。なにせ、この俺が何も教えることがないと思った一年生は初めてだったからな。中でも田山は凄かったぜ。去年は土井が三年生だったけどよぉ。はっきり言って今の矢吹と比べても土井の方が良いキャッチャーだ。その土井からポジションを奪って、俺は外野でトップバッターにしようと思ってた里中の才能を見出してエースにしやがったのも田山だ。甲子園優勝しても何も嬉しくなかった。監督は何もしねぇでも、どんどん勝っちゃうんだ。だから俺は由良明訓になったんだ。ここの監督の話は渡りに船ってやつよ」
テレビの中では試合が再開していた。広島水産は一塁にランナーを出したものの、ピッチャー里中に返球すると見せかけてファーストへ送球したキャッチャー池田の好判断でツーアウトを取った。
「へぇ。やるじゃねぇか!あのチビちゃん。小さな身体に溢れる野球センスだな…」
一年生キャッチャー池田の機敏なプレーに江口は腕組みしながら感心した。
「こいつは俺の知らない選手だが…やるもんだな。顔と身体は、まるで小学生だが江口!お前より上手いキャッチャーだ」
「やんなっちゃうなぁ。監督は!ちょっと良いキャッチャー見ると俺より上手いばかりだ。まぁせいぜい努力いたしますよ。田山まではいかないものの、おチビちゃんに抜かれないように練習しますぜ」