第156話 覚醒と崩壊●「山積みの課題」

文字数 2,231文字

 多摩川の寮からグラウンドに向かうバスに江口敏が乗り込む。常に自分に突っかかってくるフォラフト二位の大西の隣しか空いていない。普段はドラフト三位の外野手淡谷の隣に座るようにしていたが、この日に限って淡谷の隣には違う選手が座っている。江口は、また嫌味を言われるな…と思ったが仕方なしに大西の隣に座った。
 「よぉ。江口。頑張ってるな。早く一軍行けよ。お前の速球なら通用するぜ」
 大西の表情は昨日までの挑戦的でギラギラとした突っ張りぶりが別人のように消えていた。江口は咄嗟に対応が出来ず。大西の顔を見つめた。白目が赤く充血して瞼が少し腫れている。たぶん、ほとんど眠れなかったのだろう。
 「同期入団の投手同志ってことでドラフト一位には負けられないと気合を入れてきたが、それも昨日までさ。夕べ長尾二軍監督から呼ばれたよ。今日から俺は内野手に転向だ。河村監督からの命令では従うしかないよ」
 「野手転向ですか?でもガイヤンツは河村監督も投手で入団して打撃の神様になった人だし、ホームラン王の司馬さん。スイッチヒッターの芝山さん。それぞれ甲子園優勝投手から野手で成功している選手が多いから楽しみじゃないですか?」
 「おめでたい野郎だな。まぁ…その素直さが江口のいいとこなんだろう。球団が野手転向した俺に期待するものは何だ?しかも内野と限定している。二塁、遊撃、三塁のどこでも守れる便利屋になれってことだ」
 「バッティングの良さを買われたんじゃないですか?」
 そういう江口に大西は大笑いをした。
 「俺のバッティング?そんなもんが期待されるか?バッティングを買われるなら、お前の方だ。司馬さん以外はスイッチで芝山さん。まぁ林さんも右投げ左打ちだが、打撃の方はさっぱりだ。一軍が欲しいのは左の長距離砲。その可能性があるのは江口…お前だ。まぁドラフト三位の淡谷がいるから、お前にはサウスポー投手としての期待がかかってるんだ」
 「そんなもんですかねぇ。でも内野手っていいじゃないですか?一軍に上がれば毎日、試合に出れるし」
 「江口はお人好しにも程があるな。今のガイヤンツのメンバーを見てみろ。ファースト司馬。サード長岡は不動。二塁と遊撃は小粒に見えるが二塁の山井さんは立大出身で長岡さんの後輩として信頼を受けている。遊撃手の白江さんはノンプロから這い上がった苦労人。ベンチには、どこでも守れるスーパーサブの下田さん。白江さんとのレギュラー争いには敗れたものの名手、沢さんがいる。俺の出番がどこにある?向こう五年は出番はねぇよ」
 とだけ言うと大西はバスの窓の外を見つめた。寝不足なのか軽く目をつぶったが、その目からは涙が流れていた。
 「頑張ってください。大西さん。時間があったら、僕が打撃練習を手伝いますよ」
 大西は濡れた瞳で江口をみた。
 「ありがとう。江口。お前は優しい男だな。だが…その優しすぎる性格は捨てていかないと、お前は、この冷酷なガイヤンツで生き残れない。同じピッチャーとして忠告しておくが、お前は剛速球投手なのにコントロールが良すぎる。高校生相手なら、ともかくプロのバッターには狙い打ちされる。それに高校時代に打たれてないせいか、守備が下手だ。ただでさえ左ピッチャーは一塁への送球がワンテンポ遅れる。それを克服しないと、このチームで一軍に行くのは難しい。まぁ投手失格の烙印を押された俺に言われても困るだろうがな」
 「ありがとうございます。大西さん」と言った江口だったが、この時点ではコントロールの良さが自分の欠点になっているのが何故なのか?全く判らなかった。思い起こせば高校時代のキャッチャー矢吹は「たまにはコントロールミスをしたフリをしろ!」「一試合に一回ぐらいはフォアボールでランナーを出せ!」「ランナーがいなけりゃ暴投だってしていいんだ!」と口うるさく要求した。
 江口にとっては、何かの駆け引きになっているのだろうと薄っすら感じていたが、言われた通りに投げているだけだった。愚直に「スピードがあればいい」「コントロールが良い方がいい」「変化球も狙ったところに投げればいい」と思い込んでいた。長所と短所は、常に近いところにあるという落とし穴に、まだ気がついていなかった。
 イースタンリーグが始まると新人選手とは言え本格的なトレーニングに入る。投手組と野手組に分かれ、いつでも試合に出られるように準備をしておけという体制である。ピッチャーはブルペンにいる時間が長くなり、投手コーチからフォームのチェックを受けたり、サインプレーの練習が増える。大リーグ、ロスアンジェルス・ドジャースの「ドジャース戦法」に傾倒している河村監督と牧場ヘッドコーチの方針により、ガイヤンツはサインプレーには絶対服従のルールが設けられた。
 送りバントのサインが出た打者が、あまりの絶好球に強振したところ逆転ホームランになった。その日のヒーローとして試合終了後にお立ち台に立ったが、数日後にサイン無視のペナルティによる罰金が課せられたというエピソードがある。独断のプレーが許されているのは例外として長岡と司馬の二人だけである。
 江口にとっては、この細かなサインプレーが苦手であった。高校時代にランナーを背負った場面に、あまり遭遇していない江口にとって「二球目に牽制」というサインだけでも気持ちの上で負担になった。さらに、この絶対服従のサインプレーが江口の致命的な欠点を首脳陣に知られてしまうのである。
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

河村監督●東京ガイヤンツ九連覇を成し遂げる大監督。当初、痩身の里中を疎んじていたが、徐々に、その闘志と技術を認めていく。選手とは、あまり話をせずに腹心の報告によって対応する。管理野球の申し子。

長尾●ガイヤンツの二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍投手コーチと人事異動の多い河村の腹心。無愛想で口うるさい人物のため選手には嫌われている。江口敏を死に至らしめた一因は自分にあると自責しており、里中に期待をかける。

黒岩●ガイヤンツ二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍守備走塁コーチ。もともとガイヤンツOBだが一時期は広島の海洋モータースの監督を務めた。長尾とは正反対の親分肌の人物で選手から好かれているが、采配には疑問が残る。投手として入団させた人材を野手に転向させたがる傾向がある。

藤井●ガイヤンツ一軍投手コーチ、二軍監督。現役時代はガンジーと呼ばれる痩身のエース。そのため似たタイプの里中に目を掛けている。褒め殺しで投手を乗せる性格は選手に人望があるが、それ故、河村や長岡に疎まれてガイヤンツを退団する。

中川●ガイヤンツ二軍投手コーチ、現役選手よりも若いため若手選手の兄貴分のような存在。河村からも信頼を受けており、人事異動の多い組織の中で定位置をキープしている。

牧場●現役時代は中京ドアーズの内野手。英語が堪能でメジャーリーグの文献を研究しているため河村の声でガイヤンツのヘッドコーチに就任。一時期は守備走塁コーチに降格したが、その堅実な作戦は常勝軍団の頭脳と判断され、再びヘッドコーチに戻る。

長岡●六大学野球から鳴り物入りでガイヤンツ入りしたスーパースター。河村の勇退後の監督に内定しており、現役晩年は衰えを見せながらも最後の最後まで燃える男の真骨頂を見せる。

司馬●元甲子園優勝投手だがガイヤンツ入団と同時に打者へ転向。当初は伸び悩んだが、荒井打撃コーチの指導により一本足打法を開眼させ世界的なホームラン打者になる。長岡より五歳年下ということもあり、九連覇末期に、その打撃技術は円熟に達する。

堀本●紳士的なガイヤンツの選手の中で、あえて悪太郎という不良キャラクターを演じるエース。プライドと強気のピッチングが魅力。

高岡一三●堀本が右投手のエースなら、こちらは左のエース。性格も、どちらかというと陰気な真面目人間。堀本とは不仲なふりをしているが裏では大の仲良し。気が弱いのが弱点。

林●ガイヤンツ黄金時代のキャッチャー。陰険でケチ、投手はもちろん選手からは嫌われているが河村には絶対的な信頼されている。巧みなインサイドワークとポーズとしての弱気で相手を騙す。グラウンドの司令塔。

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