第129話 狂気の延長戦●「接戦」

文字数 1,945文字

 十回の表、岐阜青雲大学付属高校の攻撃が始まった。二番の赤川から矢吹、江口と回る打順にスタンドは大いに盛り上がった。右打者の赤川は左足をやや三塁方向へ開いて構えた。シュートやシンカーという内側に来る変化球とカーブのように外側に逃げる変化球に対応しようとするオープンスタンスである。
 相手が、その気ならば待っている変化球を投げてやる必要はない。里中が外角低めに速球を決めると赤川は完全に振り遅れた。赤川はオーソドックスな平行スタンスに戻す。三塁側青雲大付属のベンチでは織田監督が首を振った。
 「負けん気の強さが赤川の魅力だったが、技術が伴わなければ意味はねぇか…。そこまで育てられなかった俺の負けだな」
 とベンチ内でこぼした。里中は赤川のスタンスに気付き、カーブとシンカーを駆使して三振に仕留めた。三番の矢吹が打席に入る。里中にとって江口よりも矢吹が嫌な打者なのである。これまでの対戦経験では里中が圧勝しているが勝負に対する執念。勘のよさ。度胸と野球技術を超えた能力を持っている。
 同時にネクストバッターサークルの江口を見た。普段なら何度か素振りをやって打順を待つ江口がヘルメットを深く被り、方膝を地面について瞑想するように静かに座っている。マウンドの里中を見ようともしない。
 キャッチャー田山のサインはカーブである。矢吹は里中のコントロールを信じきっているように微動だにせずに見送った。この矢吹に限って背中に当りそうに見えるカーブを怖くてよけたりはしない。二球目の田山のサインは滅多に出ないサインである。それはコントロールミスしたような暴投であった。田山はミットを少し打者側に動かした。外角に外すのではなく内角へ外せという意味だ。限りなくビーンボールに近い危険なサインである。
 「矢吹さんには何の恨みもないけど、厳しいところ狙わせて貰うぜ」
 心の中で呟いた。これも勝負だ!矢吹のような男なら分かってくれるだろうという里中の思いもあった。
 ボールは右打者矢吹の背中を抜けて暴投となる。田山は「おい。しっかりしてくれよ」という顔をしながらボールを捕った。里中は帽子を取って矢吹に謝った。矢吹は少し笑いながら
 「お前が俺に当てる気はないのは知ってたぜ」と口の動きだけで伝えてきた。「やはり他の選手とは違う。街のケンカもかなり経験しているのだろう」と里中は感じた。観客が
 「汚ぇぞ!里中なんか退場にしちまえ!」
 などと野次が飛んでいる。田山も勝負には厳しい男だ。強気に内角高めのストレートを要求してきた。サイドスローの里中が、このコースを狙うと、まるで頭部を狙ったビーンボールのように見える。しかしボールはストライクコースに入ってくる。矢吹はシャープなスイングで、このストレートを捉えた。江口の剛速球を丸二年以上も受け続けた矢吹にとって恐怖心はない。
 打球は鋭いライナーとなって三塁線を襲う。里中が「やられた!」と思った瞬間。サードの岩城が仁王立ちで捕球した。ライバル矢吹に対する敵愾心は半端なものではない。この試合でも本塁上のクロスプレーで競り負けている岩城は、その汚名返上と燃えていたのである。
 バッターは江口になった。メジャーリーガーの四番打者のように大きく構えている。初球のシンカーをフルスイングしてくる。空振りだがマウンド上で風を感じるほどの強烈なバットの振りであった。カーブ、シュートを駆使して江口を三振に討ち取った里中だったが、無表情の江口が機械仕掛けのバッティング人形のように全力に振ってきたのには不気味さを感じた。
 「後続の滝では里中の敵じゃない。この場面はホームランしかないというスイングだったな」
 田山は冷静に江口の三振を分析していた。
 「どうかな?いいスイングだし、いいピッチングをしているんだが、江口の精神状態は普通じゃない。こいつと投げ合うのは疲れるよ」
 里中は珍しく田山に愚痴をこぼした。気付けば自分の身体に、かなりの疲労が溜まっているのを自覚できた。センターばかり守っているとピッチャーよりも楽に感じていたが、この猛暑の中で外野手をやるだけでも、かなり疲労しているのだ。
 「高校三年になっても、思ったよりも体重も増えなかった。結局のところ俺は痩せの大食いということか…。江口や岩城、それに田山の体力が羨ましい」里中は大きく息をしながら土井監督の横顔を見た。
 「一時は俺を外野手に抜擢する土井さんを恨んだりもしたが、土井さんは俺の体力を見越して外野手に回したんだ。何も高校野球だけで俺の人生が終わる訳ではない…。つくづく俺はいいチームに入ったものだ」
 ダッグアウトから里中は外野スタンドを照らす太陽を恨めしそうに見た。午後二時。甲子園球場の気温は三十五度を超えていた。
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

河村監督●東京ガイヤンツ九連覇を成し遂げる大監督。当初、痩身の里中を疎んじていたが、徐々に、その闘志と技術を認めていく。選手とは、あまり話をせずに腹心の報告によって対応する。管理野球の申し子。

長尾●ガイヤンツの二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍投手コーチと人事異動の多い河村の腹心。無愛想で口うるさい人物のため選手には嫌われている。江口敏を死に至らしめた一因は自分にあると自責しており、里中に期待をかける。

黒岩●ガイヤンツ二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍守備走塁コーチ。もともとガイヤンツOBだが一時期は広島の海洋モータースの監督を務めた。長尾とは正反対の親分肌の人物で選手から好かれているが、采配には疑問が残る。投手として入団させた人材を野手に転向させたがる傾向がある。

藤井●ガイヤンツ一軍投手コーチ、二軍監督。現役時代はガンジーと呼ばれる痩身のエース。そのため似たタイプの里中に目を掛けている。褒め殺しで投手を乗せる性格は選手に人望があるが、それ故、河村や長岡に疎まれてガイヤンツを退団する。

中川●ガイヤンツ二軍投手コーチ、現役選手よりも若いため若手選手の兄貴分のような存在。河村からも信頼を受けており、人事異動の多い組織の中で定位置をキープしている。

牧場●現役時代は中京ドアーズの内野手。英語が堪能でメジャーリーグの文献を研究しているため河村の声でガイヤンツのヘッドコーチに就任。一時期は守備走塁コーチに降格したが、その堅実な作戦は常勝軍団の頭脳と判断され、再びヘッドコーチに戻る。

長岡●六大学野球から鳴り物入りでガイヤンツ入りしたスーパースター。河村の勇退後の監督に内定しており、現役晩年は衰えを見せながらも最後の最後まで燃える男の真骨頂を見せる。

司馬●元甲子園優勝投手だがガイヤンツ入団と同時に打者へ転向。当初は伸び悩んだが、荒井打撃コーチの指導により一本足打法を開眼させ世界的なホームラン打者になる。長岡より五歳年下ということもあり、九連覇末期に、その打撃技術は円熟に達する。

堀本●紳士的なガイヤンツの選手の中で、あえて悪太郎という不良キャラクターを演じるエース。プライドと強気のピッチングが魅力。

高岡一三●堀本が右投手のエースなら、こちらは左のエース。性格も、どちらかというと陰気な真面目人間。堀本とは不仲なふりをしているが裏では大の仲良し。気が弱いのが弱点。

林●ガイヤンツ黄金時代のキャッチャー。陰険でケチ、投手はもちろん選手からは嫌われているが河村には絶対的な信頼されている。巧みなインサイドワークとポーズとしての弱気で相手を騙す。グラウンドの司令塔。

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