第93話 若者たちの敗北●「口裏あわせ」
文字数 2,103文字
特に喜んだのはマネージャーの内川亜紀だった。キャプテンが矢吹になればマネージャーとしては矢吹と話をする機会が増える。少しでも矢吹の近くにいたいと思う亜紀にしてみれば願ったり叶ったりの人事であった。
しかし矢吹はキャプテン就任早々から部員たちを落胆させる宣言をしなくてはならなくなった。
「一ヵ月後には東海地区の秋季大会が始まるが、かなり厳しい戦いになると思う。甲子園大会準々決勝での酷使で江口君の左腕の肘、手首を痛めていた。完全試合は偉業だったが引き換えに故障があった。主治医のアドバイスでは野手としてプレイするのは構わない。ただし完治するまでピッチャーは控えるようにとのことだ。従って秋季大会は江口君を一塁手として起用する。ピッチャーは滝と黒沢で凌ぐ。各自、練習をがんばってくれ」
一瞬、部室はざわめいたが、準決勝の由良明訓戦で江口が六点も献上したことを考えると怪我では仕方ないという納得をした。しかし、この江口の故障は江口本人と矢吹。それに織田、天野の考えた嘘だった。八木の進言通り、甲子園での連投を避けさせるため江口を一塁にコンバートさせるという案に半分従った。しかし半分は織田が突っぱねたのである。
「八木さんよぉ。確かにガイヤンツ首脳陣がドラフト単独指名を狙うのは理解したよ。だがねぇ。俺はプロ球界とは縁もゆかりもねぇアマチュア野球の指導者だ。こいつら高校球児にとって甲子園出場ってのは大きな夢だ。あんたも知っているだろうが、このチームじゃ江口が投げない限り予選のベスト4がいいとこだろう。後、二回のチャンスを二回とも大人の事情でなしにするってのは、俺は納得できねぇな。だから、ここは日本人らしく折衷案でいかねぇか?」
「折衷案?妙なことを言われますな?」
「俺もなぁ。高校生の連投には問題はあると考えている。準々決勝から準決勝、そして決勝戦は少なくとも一日は休養すべきだと申し入れもしてきた。ずばり訊くがね。去年、ガイヤンツが中退させて獲った韓国籍の新山選手。俺が由良明訓の時に決勝やったから想像つくんだが、あの新山は故障持ちだったんだろう?今年は二軍戦さえ投げてないんじゃないか?」
「さすがは織田監督。新山君は、すでに故障していました。今年はランニングを中心に療養の一年になりましたな。先輩たちから契約金泥棒なんて野次られて本人は辛そうですがね」
「だろうな。肩か肘を庇っているようなフォームだったぜ。河村監督としちゃ新山が使い物にならないんで江口を中退させても欲しい。しかし二年続けて、それをやったら世間の非難もまずかろうって言うんで、これ以上に江口に連投させる!と言いたいんだろうな」
「今シーズンで名投手金山さんは引退します。ガイヤンツとしては戦力になる左腕投手は高岡一三ただ一人。新山も獲った。江口君も欲しいというのが本音でしょう」
「見返りは江口敏の将来をガイヤンツのエースに!ってのだけだな。他の奴らのことなどお構いなしだ。そこで折衷案だ。野球部としては江口敏は準々決勝の力投で肘を壊したと発表しよう。秋季大会は野手で出場だ。だけど治療の甲斐あって来年の夏はピッチャーとして復活というシナリオだ。もちろん真実を知っているのは選手では江口と矢吹だけ、後の連中には野手をやりがら療養とだけ伝える。まぁ選抜甲子園は諦めることになりそうだが、こいつらの最後の夏は堂々と勝負させてやる。それでどうだ?」
「ガイヤンツとしちゃ当てが外れた結果になるでしょうが、そこまでは強制する権利はないですからな。また、ほとんどの野球少年がガイヤンツのファンだ。ガンヤンツに入れるとなれば喜んで入団すると思い上がっているのもガイヤンツの弱点です。実は江口君がドアーズのファンで打倒ガイヤンツという意識を持っているとは想像してなかったでしょうな」
織田が立ち上がった。
「江口も矢吹も、これで納得してくれただろうな。秋季大会と選抜は捨てるつもりでやれ!しかし全ては最後の夏に賭けろ!」
八木との会談、以上のような内容に終わった。実際、入学時から一人で投げ抜いてきた江口は自分の身体に疲労を感じていた。むしろ気温の低い秋季から春にかけて野手に専念するのも悪くないと思っていた。ただ内心、選抜甲子園大会への連続出場には少しばかりの未練はあったのである。
一方の矢吹はキャプテンとしての初仕事はチームメイトに口裏あわせの方便を伝えるという嫌な仕事から始まった。元々、不良少年ではあるが、他人を騙したり、陥れたりする行為は好きじゃない。そんな矢吹の物言いに亜紀は少しだけ違和感を感じた。部員の何人かも違和感を持っていた者はいたかもしれない。しかし亜紀を筆頭に誰も江口の故障という報告に異論を唱えなかった。若干十七歳にして矢吹には、そんな威圧感を身に着けていたのである。