第161話 覚醒と崩壊●「気になる名前」 

文字数 2,572文字

 午後の日差しが蒸し暑く感じてくる季節がやってきた。名古屋中心部の外れにある全丸大のグラウンドでは熱のこもった練習が始まっていた。これまでのエース高山に加えて里中が入った二枚看板の投手陣。加藤と中間が仲良く三、四番に抜擢されたことで打線に軸が出来た。これまで都市対抗東海予選で、ベスト4が突破できない全丸大にとって高卒トリオの活躍は本大会出場を期待させる新戦力だったのだ。
 里中と高山は良いコンビになった。里中は高山のピッチングフォームからストレートの球速アップを課題に練習した。常に自信満々でふてぶてしくマウンドに上がる高山だったが、内面は臆病で優しい。里中の好投を見ているうちに直球一本槍のピッチングに変化が欲しくなったようだ。
 「なぁ。俺が変化球を一つでも身につけるとしたら、何がええんやろ}
 「高山さんのフォームはオーバースローの典型ですからね。腕を下げたらバッターに変化球がバレちゃう。もちろん剛速球には、こだわっていきますよね?」
 「まぁ、そりゃ。俺は真っ直ぐしか取柄のないピッチャーやからね」
 「じゃあフォークか?シュートが早いんじゃないですか?」
 などと里中に変化球のレクチャーを受けるようになった。投手としての下地は十分に出来ている高山だけにシュートは見よう見まねで決まるようになった。ただし勢いがあり過ぎて暴投になってしまうのだ。
 「このシュートがコントロールできたら魔球ですね。松平さんのカミソリシュートを超えますよ」
 「手首の使い方が間違ってるのかなぁ?キャッチャーが捕れなきゃ使えないわ」
 そんな時に太い声で
 「止めとけ!止めとけ!高山の球威で、そんなシュート投げたら怪我人じゃなくて死人が出るぞ!それよりフォークにしとけ!腕の振り方はストレートと変わらんから、バッターにはバレんよ。それにしても二人とも調子良さそうじゃないか?」
 東京ガイヤンツのスカウト部長岩田である。里中をぴったりとマークしているのだろう。このところ練習をよく見に来る。監督の下川とも、すっかり打ち解けていた。
 「里中君は高山君の影響で球速アップ。高山君は里中君の影響で変化球に挑戦。全くタイプが違う二人が影響し合うってのはチームにとって良いな」
 練習中だったが、どうも数日前から里中の頭の片隅に引っかかった名前がある。日本中のアマチュア野球に詳しい岩田なら知っているだろうと思っていたところだった。
 「そう言えば岩田さん。栃木県の柵新高校の湯川選手って知ってますか?」
 岩田は一瞬、怪訝な顔をしたが、すぐに答えてくれた。
 「ちなみに柵新高校じゃなくて柵新学院という学校なんだがな。まぁ…里中君が知らなくてもしょうがない。高校野球では実績のない学校だからね」
 「はぁ。青雲大学付属高校みたいな高校ですかね?」
 「いや…あそこよりはスポーツも盛んだよ。最近の私立高校に多いスタイルで進学クラスとスポーツクラスで授業が違うんだ。剣道や陸上部はインターハイにも出場している。そういう学校では珍しく進学クラスの生徒が野球部に入部した。それが湯川さ」
 里中の脳裏では、その湯川と江口敏の境遇が凄く似ているように感じた。
 「まだ地区予選も始まっていないのに新聞記事になるなんて、凄い奴なんですかね?」
 「おい!里中君。君は一体、どんな記事を見たんだ?」
 「そうちゃんと読んだ訳じゃないんですが、怪物だとか豪腕一年生とか言われているって記事ですね。僕らの時の江口みたいな存在なのか?と気になりまして」
 岩田は少し呆れた顔で里中を見た。
 「仕事に野球に忙しいとは思うだね。君も少しは母校の後輩のことも考えてやれよ。土井は東京。田山は福岡。岩城は大阪。君は名古屋と散らばってしまったがね。ノンプロの君なら堂々と後輩と接触できるだろう」
 里中は少し顔を赤らめた。岩田に言われた通り、名古屋での新しい生活に夢中になって、すっかり由良明訓高校のことまで気が回らなかった。
 「湯川勝が一躍、有名になったのは由良明訓高校との練習試合がきっかけだよ。君達が卒業して、あの爆発的な破壊力はなくなったが、選抜にも出場したしベスト8には残った。池田を中心に浜、二本松の二枚エース。土屋、小杉らが小粒ながら良いチームを作っている」
 「あぁ…選抜にも出てたんですね。準々決勝までは進んだんだ」
 「無関心にも程がある!監督も織田監督が戻られたしな。相変わらず優勝候補の一角が由良明訓なのは変わらんよ」
 里中は思わず帽子を脱いで頭を掻いた。ドラフト十位の松映ロビンスを断って大阪体育大学への推薦入学が決まっていた。ところが急転直下。推薦入学の中止で、今の全丸大への入社と、この春は里中の周囲は慌しかった。母校が選抜に出場していたのさえ知らなかったのだ。
 「田山がいたから目立たなかったですが池田は良いキャッチャーですよ。キャプテンとしても適任です。二本松は不器用だけど長打力がある。浜も投打に良い選手ですから、そう簡単に弱くはならないとは思ってましたが…」
 横の高山が「おお!あの二本松ってのは俺と似たタイプのピッチャーだから親近感があるで。まぁ、あれに比べりゃ俺の方がハンサムだけどな」と冗談を飛ばした。
 岩田も一緒に笑ったが、真剣な表情に戻った。
 「そう。その強い由良明訓高校に挑戦したのが栃木の無名高校、柵新学院だ。鳥取まで遠征しての練習試合で一年生ピッチャー湯川勝が強豪由良明訓相手に完全試合を達成したんだ。公式戦ではないと言え、たまたま地元の新聞が取材に来ていたために、ちょっとした騒ぎになった」
 「え!まさか!織田さんが主力を試合に出さなかったんじゃないですか?池田なんて滅多に三振しないバッターですよ!」
 「いや…そのまさかだよ。選抜ベスト8の由良明訓相手に十八奪三振で完全試合。ついてに寄った広島では名門広島林業高校相手にノーヒットノーラン。関東に帰る途中で大阪の選抜優勝校CL学園を相手に一安打完封。奪三振は二十。もちろん由良明訓のベストメンバーを牛耳った豪腕一年生を警戒して広林もCLもベストメンバーで臨んだ結果が、この有様だ」
 里中の中で、なぜかこの「湯川勝」という名前が不気味で不吉な響きに感じられた。まだ面識もない、この三歳年下の男に奇妙な恐れを感じたのである。
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

河村監督●東京ガイヤンツ九連覇を成し遂げる大監督。当初、痩身の里中を疎んじていたが、徐々に、その闘志と技術を認めていく。選手とは、あまり話をせずに腹心の報告によって対応する。管理野球の申し子。

長尾●ガイヤンツの二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍投手コーチと人事異動の多い河村の腹心。無愛想で口うるさい人物のため選手には嫌われている。江口敏を死に至らしめた一因は自分にあると自責しており、里中に期待をかける。

黒岩●ガイヤンツ二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍守備走塁コーチ。もともとガイヤンツOBだが一時期は広島の海洋モータースの監督を務めた。長尾とは正反対の親分肌の人物で選手から好かれているが、采配には疑問が残る。投手として入団させた人材を野手に転向させたがる傾向がある。

藤井●ガイヤンツ一軍投手コーチ、二軍監督。現役時代はガンジーと呼ばれる痩身のエース。そのため似たタイプの里中に目を掛けている。褒め殺しで投手を乗せる性格は選手に人望があるが、それ故、河村や長岡に疎まれてガイヤンツを退団する。

中川●ガイヤンツ二軍投手コーチ、現役選手よりも若いため若手選手の兄貴分のような存在。河村からも信頼を受けており、人事異動の多い組織の中で定位置をキープしている。

牧場●現役時代は中京ドアーズの内野手。英語が堪能でメジャーリーグの文献を研究しているため河村の声でガイヤンツのヘッドコーチに就任。一時期は守備走塁コーチに降格したが、その堅実な作戦は常勝軍団の頭脳と判断され、再びヘッドコーチに戻る。

長岡●六大学野球から鳴り物入りでガイヤンツ入りしたスーパースター。河村の勇退後の監督に内定しており、現役晩年は衰えを見せながらも最後の最後まで燃える男の真骨頂を見せる。

司馬●元甲子園優勝投手だがガイヤンツ入団と同時に打者へ転向。当初は伸び悩んだが、荒井打撃コーチの指導により一本足打法を開眼させ世界的なホームラン打者になる。長岡より五歳年下ということもあり、九連覇末期に、その打撃技術は円熟に達する。

堀本●紳士的なガイヤンツの選手の中で、あえて悪太郎という不良キャラクターを演じるエース。プライドと強気のピッチングが魅力。

高岡一三●堀本が右投手のエースなら、こちらは左のエース。性格も、どちらかというと陰気な真面目人間。堀本とは不仲なふりをしているが裏では大の仲良し。気が弱いのが弱点。

林●ガイヤンツ黄金時代のキャッチャー。陰険でケチ、投手はもちろん選手からは嫌われているが河村には絶対的な信頼されている。巧みなインサイドワークとポーズとしての弱気で相手を騙す。グラウンドの司令塔。

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