第73話 春風編●「破局の始まり」
文字数 1,846文字
「朱美ちゃん。ごめんなさい。マスコミが多くて野球部には近づけなくなっちゃったの。旅館の周りもカメラマンだらけ。借りているグラウンドへのバス移動でも何台もの車が尾行しているみたいなの。芸能人じゃあるまいし、こんなに騒ぐことないのに…って思うんだけど」
などと謝られた。謝られても困る。なにも夏美が悪意を持ってマスコミを集めている訳ではないのだ。大会が終われば静かになるか?と思ったが、そうはいかなかった。夏の大会に続いて春の選抜も優勝してしまった。準々決勝の岐阜青雲大学付属高校戦こそ、当初は凡戦とか八百長疑惑と騒いだものの、準決勝と決勝戦を由良明訓が圧勝するとマスコミは手のひらを返したように賞賛した。夏に比べると評論家の評価を上げているのは里中だった。
「ハンサムだけが取り柄のピッチャーだと思っていたが、里中繁雄君は高校生にしては珍しいサイドスローの実力派です。シンカーとスライダーの切れ味はプロで十分に通用します。青雲大付属の江口敏君とライバル扱いされていますが、精神的な強さは里中君です。ピンチを迎えた時に江口君は精神的な脆さを見せてしまいます」
こんな記事が新聞に載っていたのを見て朱美、ヨーコ、夏美は揃って大笑いとした。確かに強気の里中と気弱な江口という対照的な二人ではある。だけど女たちから見ても里中と江口を比べたらピッチャーとしては江口の方が圧倒的に実力は上だ。たまにマグレ当たりがある矢吹と打者としても凄い江口だけ警戒すれば貧打の青雲を相手に投げている里中と田山、岩城という超高校級のホームランバッター。それにヒット製造機の馬場。俊足の好打者里中という四人を警戒しなくちゃいけない江口では精神的な圧力が全く違う。下位打線だけ取っても根っからの野球少年が集まっている明訓と学業優先の青雲ではレベルが違う。
以前に里中が
「カーブは最初から投げられたんだけど、どうしてもスライダーが投げられないんだよな。なんか、こうコツが掴めないんだ」
とこぼしていたのを思い出した。「評論家なんて、いい加減なもの」と朱美は思った。会わない時間が長くなっていくと朱美自身が里中繁雄という男が好きなのか?どうか?も不安になってくる。溜り場の部屋には「沢村さんから朱美宛てに電話アリ」というメモがある。沢村とは朱美に連絡する時に使う里中の偽名だ。秋までは週に二回はメモを見た。最近は十日に一度でもメモを見ればいい方だ。
普通の十六歳の少女であれば、それでも里中君は私を愛している…等と信じられただろう。だが朱美は違う。男が女に対して、どう接してくるか?判っている。客だって本気で惚れれば週に二日や三日、下手すれば金が続く限り毎日指名をかけてくる。スポーツに打ち込む体力も持つ高校生ならば性欲も有り余っている。里中にとって朱美は都合よく身体を使わせてくれる自慰の相手だったのだろうと朱美は考えた。
もともと朱美が好きなのは矢吹太だ。事の発端は矢吹が、まだ無名なうちに江口敏の筆卸しの相手に朱実を使ったことに始まる。朱美にとってライバル校の里中に近付き、矢吹を動揺させることが目的だったのだ。高校球界ナンバーワンの美男子と寝れるか?は朱美にとって女としての魅力を掛ける勝負でもあった。勉強が出来る訳でもない。ホームランが打てる訳でもない。速い球が投げられる訳でもない。そんな取り柄のない朱美が里中の恋人に収まることで男達の世界と肩を並べる何かを手に入れられると信じていたのだ。
部屋のラジオからビートルズの「イエスタディ」が流れている。誰がリクエストしたのだろう?こんな気分の時ほど聴きたくもない、しみったれた歌が流れるものだ。どうせなら「シー・ラブズ・ユー」でも流れればいいのに…と朱美は思った。会って喧嘩でもして判れるのならば、それで納得できる。マスコミの目ばかりを怖がって身動きできなくなった二人は、そのまま自然に離れていくしかないのだろう。
「あ~もう。しつこい男でイヤになっちゃった。なかなか終わらなくて一時間も入れっぱなしなんだもん。あー朱美ちゃん。今日はまだなんだ?」
ヨーコが明るく帰ってきた。ヨーコと江口が、どうなっているのか?朱美は訊いてみようと思ったが止めた。ヨーコはヨーコだ。私とは違う。あの二人の関係が続いていようが、いまいが、朱美には関係のない話なのだ。