第205話 心の暗闇●「強制退院」
文字数 4,172文字
技巧派の安達とは対照的に麦田は、ごつい身体とスタミナで投げ抜く力のピッチャーだ。「どうも俺の目指す投手像とはかけ離れていて、あまり参考にならん」と思ってみていた。ただし一昨日、三勝を挙げ日本一に王手をかけたガイヤンツが、このまま優勝を決めてしまうと日本シリーズは終わってしまう。「麦田さんには悪いがガイヤンツ打線に打ち込まれたら、もう後がないブレイブは安達さんを出すんじゃないか」などと勝手なことを考えていた。
二回に一点先制したものの、里中の思惑通り三回の表に麦田は、つかまった。三番司馬の同点ソロホームランに続いて四番長岡の逆転ソロホームランが飛び出す。敵地、西宮球場でもガイヤンツのファンは多い。晴れ舞台で二大スーパースターの連続ホームランが見れて大喜びである。ここで西監督はピッチャー交代。里中は「安達さん!」と思ったが、切り札安達は、まだ出さない。
五番の末吉が四球。お世辞にも強打者と呼べない白江、林の連続ホームランが飛び出して、一気に五点を取った。「まぁ、これでガイヤンツの八連覇は決定だな」と思った。少し気楽に日本シリーズ最終戦の観戦と決め込んだ。冷静になったせいか?里中はガイヤンツ二軍投手陣が陣取った外野席後方の立ち見席に桃園新聞の山井がいるのに気が着いた。「やれやれ、この西宮くんだりまで追いかけてくるとは、この執念だけは尊敬できるな」と思った。
里中にとって嬉しかったのは8-3と一方的なスコアになりながらもブレイブの西監督は九回表ガイヤンツの攻撃にエース安達を出してくれたことだった。「負けるにしても日本シリーズの大舞台で、あまりみっともない負け方はできん!」という西監督の執念が感じられた。その執念が乗り移ったように安達投手は司馬、長岡、末吉のクリーンナップを三者凡退に討ち取った。里中の思った通り「シンカーを打たれたら、シンカーでやっつけろ」という強気のピッチングであった。
世間は「東京ガイヤンツ。奇跡の八連覇」に浮かれムードだが、球団内部は契約更改も含め、なかなか慌しくなる。里中はイースタンで七勝五敗十救援。計十七試合の勝ちゲームに関わったピッチャーとして来シーズンから一軍入りを約束された。朱美との挙式は「来シーズン終了後にして欲しい」と事務職員に釘を刺された。
丸の内の球団事務所前で長岡ヘッドコーチと鉢合わせした。里中は「一軍入りの辞令をうけまいした。来年はよろしくお願いします」と挨拶をすると、長岡は悔しそうに
「ふん。お前はいいな。わしは来年は二軍監督に逆戻りだよ。一軍ヘッドは黒岩だ。全く、もうやってられんよ。江口だよ!全く、あの疫病神のお陰で…」
と長岡が言いかけたところで里中は唇に人差し指を立て「しっ」という仕草をした。長岡の耳元で「桃園新聞の山井一派が俺を尾行しています。たぶん例の件だと…」と言うと長岡も真剣な顔になり「よし。分った」と里中を首脳陣専用の談話室に入れた。「どんな敏腕記者でも、この部屋までは入って来れない」と得意そうに言った。
「さて里中選手。桃園の山井なんだが、あいつどこまで掴んでるんだ?」
「俺が声を掛けられたのが任天堂大学病院の前でした。江口敏ではなく二宮光という偽名を使って入院していることはバレてないと思います。ですが不安なのは江口が青雲大付属高校にいる頃、野球部に女子マネージャーがいたんですが、その子が任天堂大学医学部の二年生になってまして、どうも江口の入院に気がついているみたいなんです」
「え!そんな偶然があるのか?女だてらに医学部とは…」
「内川亜紀という子ですが、内川が実習で大学病院に行った時に江口の入院に気がついて翌日には見舞いに行ったそうです。その内川だけが球団外部で二宮が江口だということを知っている人間になる訳です」
「医学部の学生か…これは病院側の人間とも言えるが、外部とも言える。その後、里中や大西、淡谷は任天堂大学病院に行ったのか?」
「俺は高校時代にも山井達に尾行されて嫌な思いしてますから、一度も行ってないですよ。淡谷は一軍。大西にしてもイースタンも優勝目前で忙しかったですから、見舞いに行ってはいないと思います」
「全く…江口敏が、これほど疫病神になってしまうとは…わしも考えていなかったよ。今度の人事にしても江口の退院後のことを考えて黒岩さんより、わしが二軍監督をやった方がいいという河村監督の考えだ。河村さんは何としてもノイローゼなど、なかったことにしようと考えておる。もちろん、わしもだがね。ともかく江口は寮に戻す。秋季は軽い練習だけ、させておく」
ガイヤンツ首脳陣の対応は素早かった。その日のうちに江口は寮に戻っていた。しばらくの病院生活で、一時期の肥満体型は痩せさせられて以前の体つきに戻っていた。寮で若手選手同士が食事をしたり談笑する分には病気は回復しているように見えた。ただ誰に聞いても「少しぼんやりしている感じがする」という印象を持った。
そして迎えた11月22日。東京ガイヤンツ二軍選手は一軍よりも一足先に練習納めを行い。その晩は納会となった。寮の食堂に黒岩二軍監督。中川ピッチングコーチら二軍コーチ陣も集められ、エビフライ、刺身、牛肉のステーキ等が盛られた普段より豪華な夕飯が振舞われた。中川が
「本当ならガイヤンツは二十二歳まで酒とタバコは許可していないが、今シーズンは一軍も二軍も優勝した。成人している選手に関してはビールぐらいは飲んでもいいぞ」
と飲酒を許可した。寮にいる選手でも大学出身やノンプロ出身は、すでに酒の味を覚えている。二十二歳以下でも隠れて飲んでいる者もいる。中川自身が酒好きなせいか「ははん。こいつは隠れて酒飲んでいるな」と思っても罰金は取らず黙認していた。堅物の長尾と違い、酒豪揃いの海洋モータースで監督の経験もある黒岩は酒豪でもある。
「だが明日は後楽園球場でファン感謝祭がある。河村監督の話によると紅白戦は主力選手中心で行くから、来シーズン一軍の辞令が出ているメンバーは、ほどほどにしておけよ。他の者も、ファンと一緒に二人三脚競争や綱引きなどもある。それから、里中選手。君は芝山、真田、土屋と一緒にガイヤンツ俊足ナンバーワンを決める300メートル競走に選ばれておる。あまり、みっともない走りを見せると一軍入りも取り消しだ。自重しておけよ」
里中は乾杯のビール一杯目を飲み干すと、しぶしぶジュースに切り替えた。隣にいた江口が笑いながら
「里中君はお酒にも強いんだね。僕なんか、これっぽっちで頭がふらふらしちゃうよ」
と話しかけてきた。見るとコップから二センチぐらいしか飲んでいない。高卒で、そのまま入団した選手で酒が飲めないのは江口だけではない。逆にビールをグイグイ飲めたりすると「お前は隠れて飲んでいるんだろう」と冷やかされる。
「いや…俺は一年、ノンプロをやったからな。野球選手と言ってもノンプロはサラリーマンだから、どうしても酒は飲むようになるよ。ドラフトの前に一度は止めたけどね」
中川は上機嫌で江口のコップにビールを注いだ。
「まぁ、いろいろあったけど退院おめでとう!江口!まだ二年目じゃないか!くよくよするなよ。一軍で活躍するピッチャーだって一年目、二年目は苦しい。三年目にプロの実力がついてくるものだ。お前は真面目過ぎる。寮でも優等生だ。あの司馬君だって、堀本君だって、何度も門限破りをして寮長のゲンコツをもらってるんだ。プロ野球選手だからって野球だけやってる訳じゃない。遊ぶ時は遊ぶ。そして真剣に野球もやる。そういうバランスも大事なんだ」
「コーチ…がんばります。来年は頑張ります」
コップ二杯のビールでフラフラになった江口は半分眠りかかったような顔になりながら「頑張ります」と繰り返す。里中は内心、不安になった。「退院後の江口は一見、普通に練習をこなしているように見える。だが、たしかにいつも、どこかぼんやりとしているのは確かだ。ランニングでもキャッチボールでも、どこかタイミングが遅れる。病院は何か強い薬を飲ませていて、そこに酒を飲んだから、とんでもなく酔っ払っているんじゃないか?」と勘繰った。
同室の館山が里中の肩を指で突いた。
「よう。里中。中川さんは出来上がっちゃってるが…俺達は、ぼちぼち部屋に戻った方がいいんじゃないか?お互い、来シーズンは一軍入りと言われるから明日の公開紅白戦でリリーフってことも考えられるぜ。そこで崩れて一軍昇格を取り消し!なんてことになったら、泣いても泣ききれないじゃないか?」
「うん。館山さん。俺も、そう思う。野手は分らんがピッチャーはショートイニングで投げさせられそうだ。それに俺は300メートル競走もあるしな」
「そっちの方は手を抜けよ!下手に芝山さんや真田さんより早かったりすると、来シーズンで外野手に転向ってことにもなりかねんぜ。だがなぁ。お前はいいよ。実力が認められれば代走、守備固めでも一軍に定着できる。俺は打撃と走塁は、からっきし駄目だからな」
「あぁ…。だが芝山さん、真田さんは、まだ若い。ライトの末吉さんも強肩だし足が遅い訳じゃない。ガイヤンツの外野三人は動かんよ。それにしても江口の酔っ払い方が危なっかしい。あいつも部屋で寝かせた方がいいんじゃないか?」
「ああやって中川コーチが飲ませてるんだから問題ないだろう。今年の江口の体たらくじゃ明日は場内整備ぐらいしか用事はないから、お前が心配する問題じゃないだろう」
等と話しながら里中は館山と食堂を出た。黒岩の周りには野手陣が集まっている。里中と館山が部屋に戻ろうとしているのを見ると「いい心がけだ」と声を掛けた。