第76話 春風編●「密談」

文字数 2,167文字

 江口家の応接間には江口敏の父親に青雲大付属高校野球部監督の織田。同じく顧問教師の天野。それにもう一人の壮年の男が集まっていた。江口の父は織田と天野に、その壮年の男を紹介した。
 「こちらは八木さん。今、いろいろとアマチュア球界とプロ球界の諍いが耐えませんが、この八木さんが間を取り持っておる方です」
 「八木と申します。江口さんとは縁あって懇意にさせていただいております。私を東京ガイヤンツのスカウトと誤解されている方も多いので改めて説明させていただきますが、私自身はアマチュア球界とプロ球界が抱えている確執問題に取り組んでおります。高校野球はもちろん、大学、ノンプロ球団も含めまして、プロ志望の選手を円滑にドラフト会議にかかるようにする。また、このドラフト会議も四年目を迎え、なかなか希望球団に指名してもらえず入団を拒否するという問題点もあります。そういう部分の裏調整なども出来る限りは行っていきたいと努力しております」
 プロ球団による強引な選手引き抜きは過激化し、東京六大学野球やノンプロ球団はプロ球団に対して非協力的な姿勢を取った。とりわけノンプロ球団は都市対抗戦直前に主力選手をプロにスカウトされる等で戦力低下に悩んでいた。高校野球は、まだ大らかな姿勢であったが、わざと有望選手を中退させてドラフト外で入団させるという手段も使われ、アマ球界はプロ球界に対して接触を避ける姿勢を取った。例えば元プロ野球選手はアマ球界の指導者になれない等の規制である。
 しかし将来はプロ野球選手を夢見てアマ球界に入ってくる若者は年々、増え続けている。そういう者にとって高校、大学はもちろんノンプロ球団とプロ球団のパイプがなくなってしまうのは厳しい話である。そこでこの八木のようなフィクサーに暗躍の場が与えられていた。
 「八木さんの噂は、この江口の親父さんにしろ、俺にしろ、ノンプロの頃には聞いていたよ。会ったこともあったのかもしれねぇなぁ。…で…一つ訊きたいのだが?俺が由良明君の時に対戦した静岡工業の新原選手。韓国籍なのを逆手に取ってガイヤンツがドラフト外で入団させただろう?あれはアンタの仕業かい?」
 織田は八木に対して挑戦的な態度を取った。岐阜青雲大学付属高校野球部監督に就任したものの江口の父親と織田では、その最終目標が少し違っていたのである。
 「いえ。私ではありません。もし私だったら中退させるにしても、もう一年は在学させました。年齢制限はあっても新原君には選抜と夏の二回には出場できる可能性はありましたしね。それでは取りにくくなると考えたガイヤンツが一年早く仕掛けてしまったのです」
 「ふん。あの時は明訓は新原から四点取った。決勝戦にしちゃ締りのないワンサイドゲームになってしまった訳だが。俺の目が正しければ、あの時の新山選手は利き手の手首を庇いながら投げていたはずだ。直球もカーブも威力は落ちていた。万全のコンディションだったら田山三太郎や岩城正でも、もう少してこづったはずだ」
 「さすがは織田さんですね。図星です。ガイヤンツ首脳陣は新山選手を二年ほど怪我の療養に当てる方針です。金山投手の引退を決意している中、強引に入団させた新山君が即戦力にならないのはガイヤンツの計算違いですね。ただ藤原ピッチングコーチは、なかなか鋭い人物です。新山君が、そのまま高校野球を続けたら彼の性格上、無理をしてしまう。手首の故障が手遅れにならないように首脳陣に進言して囲わせたとの噂もあります」
 その話を聞くと織田も八木に対して好戦的な態度を控えた。
 「なるほど…。さすがは伝統ある常勝軍団。首脳陣の目は確かだな。しかしまぁ八木さんみたいな人物がここにいるってことはだ。当然、江口敏君の話になってくるでしょう」
 「織田さんの推測通りです。現在プロ十二球団のスカウトは青雲の江口敏。明訓の田山三太郎。この二人の金の卵が、どこの球団で獲得するか?その熾烈な競争は始まっているのです。最も、明訓に関しては岩城君。馬場君。里中君への注目もかなりのものです。忘れてはいけない…青雲の矢吹君も、あの江口君の速球を取れるキャッチャーとして注目されています」
 江口の父親はニヤリと笑って織田に目で合図をした。
 「なるほどね。どいつもこいつも俺の教え子ってことか…。江口君の進路に関しては俺は一切、口に出さない。だが八木さんに頼みがある。田山三太郎だけは必ず良い条件でプロ入りさせてくれ。あいつのことだから球団は選ばないだろう。田山の家庭環境は高校に進学できる状況じゃなかったんだ。両親が事故死して爺さんが三太郎と妹の幸子を育てている。あいつは中卒で働くつもりだったんだが、岩城の家が裕福で支援をするって話で高校に進学した。守備と打撃に関してはプロも放っておかない素質だが、なんしろあの鈍足だ!そこを買い叩かれると、あいつも不憫なんだ」
 「織田さん。そう心配なさらないでください。すでに東京ガイヤンツは江口君はもちろん、田山君の獲得も狙ってますよ。何しろ欲張りな球団ですからね。ピッチャー江口、キャッチャー田山なんて言う甲子園を沸かせたライバルがバッテリーを組む…なんて構想もあります。それが実現したら興行収入も相当なものですからね。全く、あの球団は底知れないですよ」
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

河村監督●東京ガイヤンツ九連覇を成し遂げる大監督。当初、痩身の里中を疎んじていたが、徐々に、その闘志と技術を認めていく。選手とは、あまり話をせずに腹心の報告によって対応する。管理野球の申し子。

長尾●ガイヤンツの二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍投手コーチと人事異動の多い河村の腹心。無愛想で口うるさい人物のため選手には嫌われている。江口敏を死に至らしめた一因は自分にあると自責しており、里中に期待をかける。

黒岩●ガイヤンツ二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍守備走塁コーチ。もともとガイヤンツOBだが一時期は広島の海洋モータースの監督を務めた。長尾とは正反対の親分肌の人物で選手から好かれているが、采配には疑問が残る。投手として入団させた人材を野手に転向させたがる傾向がある。

藤井●ガイヤンツ一軍投手コーチ、二軍監督。現役時代はガンジーと呼ばれる痩身のエース。そのため似たタイプの里中に目を掛けている。褒め殺しで投手を乗せる性格は選手に人望があるが、それ故、河村や長岡に疎まれてガイヤンツを退団する。

中川●ガイヤンツ二軍投手コーチ、現役選手よりも若いため若手選手の兄貴分のような存在。河村からも信頼を受けており、人事異動の多い組織の中で定位置をキープしている。

牧場●現役時代は中京ドアーズの内野手。英語が堪能でメジャーリーグの文献を研究しているため河村の声でガイヤンツのヘッドコーチに就任。一時期は守備走塁コーチに降格したが、その堅実な作戦は常勝軍団の頭脳と判断され、再びヘッドコーチに戻る。

長岡●六大学野球から鳴り物入りでガイヤンツ入りしたスーパースター。河村の勇退後の監督に内定しており、現役晩年は衰えを見せながらも最後の最後まで燃える男の真骨頂を見せる。

司馬●元甲子園優勝投手だがガイヤンツ入団と同時に打者へ転向。当初は伸び悩んだが、荒井打撃コーチの指導により一本足打法を開眼させ世界的なホームラン打者になる。長岡より五歳年下ということもあり、九連覇末期に、その打撃技術は円熟に達する。

堀本●紳士的なガイヤンツの選手の中で、あえて悪太郎という不良キャラクターを演じるエース。プライドと強気のピッチングが魅力。

高岡一三●堀本が右投手のエースなら、こちらは左のエース。性格も、どちらかというと陰気な真面目人間。堀本とは不仲なふりをしているが裏では大の仲良し。気が弱いのが弱点。

林●ガイヤンツ黄金時代のキャッチャー。陰険でケチ、投手はもちろん選手からは嫌われているが河村には絶対的な信頼されている。巧みなインサイドワークとポーズとしての弱気で相手を騙す。グラウンドの司令塔。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み