第175話 変革●「二転三転」
文字数 3,181文字
「まず。君の方から私に訊きたいことを言いたまえ」
と切り出した。里中は、それを断り「岩田さんが気になっているのは村野監督の話ですか?」と逆に返した。岩田は頷いた。
「それならば話は早い。村野自らが乗り出したということは具体的な条件などは提示されたのだろう?リンクスは、どんな条件を出してきた?」
「条件?」里中はキョトンとした顔で岩田を見つめた。
「条件だよ。契約金とか年棒。投手の場合は一勝につきのボーナス等だ」
「あぁ…。お金の話ですか?そういえばお金の話は一切出ませんでした」
今度は岩田の方がキョトンとした。
「何?金の話は一切しなかった?では一体、何の話をしたんだね?」
「例えばワンナウトでランナーが一塁二塁。バッターが四番打者だったら、どんな配球をすべきか?とか、俺が内角高めに、わざとボール球を投げて三振を取った試合で、その時に、もしバッターが見逃していたら、次に何を投げるつもりだったか?とか、そんな話を二時間ぐらいしてました。さすがに球界を代表するキャッチャーですね」
「ふうむ」と息を漏らすと岩田は腕組みをした。選手兼任監督として二年目を過ごした村野のチーム構想が見えてきたような気がした。各スカウトはアマチュア野球で飛び抜けた選手を探し出すのが一つ目の仕事だ。さらに、その選手に接触して人となりを見る。プロ入り後に問題を起こしそうな人物ではないか?金に目がくらんで八百長をやるような選手ではないか?女性関係のスキャンダルを起こしそうではないか?などである。
それらが問題なければ評価を提示する。そこはプロの世界だから当然、金額が評価に直結する。これが新人選手との交渉のセオリーなのだ。ところが村野をやり方は全くの逆である。村野の方から面接試験をやっているようなものだ。「こういう話が出来んような選手は、うちのチームには要らん」という方法である。逆に選手の方はドラフト前に自分の力量を見透かされたような気分になる。こういう交渉は村野にしか出来ない。
「それで村野さんは、近畿リンクスに来い!みたいなことを言ったのか?」
「いえ、そういう一言はなかったですね。まだ予定があるから店を出るが、残った料理は全部、お前が食べろ…とだけ言って席を立ちました」
そこまで聞いて岩田は本題を切り出した。
「では里中君にとって村野さんの印象は、どうなんだ?そこは正直に言って欲しい」
「やはりプロのキャッチャーはレベルの高い野球をやっているなと思いましたね。高校野球はもちろん、ノンプロでも、ピンチならピンチで、ここをどう切り抜けるか?って野球ですよね。村野さんは、立てた作戦が相手に読まれてた時も想定して二重三重に対策を考えている。キャッチャーで監督ということを考えると、こんな偉大なキャッチャーと野球をやってみたいな…と思ってしまいましたね。でもね。岩田さん。だからと言って僕は村野さんに心底尊敬してしまった訳ではないんです。きっとガイヤンツの林さんも凄いキャッチャーなんだと思います」
「君の想像通りだ。林はグラウンドの司令官だよ。河村監督、牧場ヘッドコーチに次ぐガイヤンツの頭脳だな。もちろん守備面に限っての話だがね。長岡や司馬はスターだが、作戦面には携わっていないよ。正直、君は迷っているね。ガイヤンツか?リンクスか?それにパールスも君を誘ってきていると聞いているが…」
里中は少し俯いて考えてから、思い切って全てを岩田に告白した。
「実は…。交際中の女性がいるんです。もともと知り合いでしたが全丸大に入社して再会しました。丸大デパートの化粧品売り場で頑張っています。プロ入り後も交際を続けたいし、俺が一軍の投手陣に入れたら結婚するつもりなんです。彼女なりに志があってデパート勤務を続けていきたいと言います。リンクスなら近畿百貨店、パールスならば藤井寺デパートがありますね。もし入団交渉の時に俺から条件が出せるとしたら、契約金よりも彼女を百貨店に就職させて欲しいと言うつもりでした」
岩田は、それを聞いて表情がほころんだ。
「あぁ。そういうことか!もう心に決めた女性がいるならば、それでいい。いやいや…首脳陣が心配しているのは君の容姿だ。女性スキャンダルによる球団のイメージダウンが起こるんじゃないかって言われていたのだ。女性ファンの足を球場に運ばせるのは大歓迎だが、だらしなく遊ばれると困る。むしろ結婚を考えている女性がいるならば、それは要らぬ心配だ。東京グループが直接経営している百貨店はないが、事業提供している百貨店なら沢山ある。そのぐらいの条件は球団にとってはお安い御用だ」
里中にとっては意外な答えだった。むしろ朱美の存在を球団は好ましく思わないと想像していたのである。二人の間の雰囲気は一段と打ち解けたものになった。
「ところで里中君の方から、私に訊きたいことがあると言われていたが、それは何だね?」
「はい。江口敏のことです。一向に新聞にも載らなくなってしまいましたが、彼は今は、どういう状況なんでしょうか?」
再び岩田の表情が強張った。どう答えようか?悩んでいるようである。
「甲子園では四回か?君達、由良明訓高校と江口君達の岐阜青雲大学付属高校は対戦している。君なりに江口君には友情を感じているのか?」
「そうですね。チームメイトだった田山や岩城、芸術大学に行ってしまった馬場なんかとの友情とは少し違います。ある時は目標だったり、強大な壁だったり、上手く言えないけど、常に気になる存在なんです」
「なるほど…。ただ誤解のないように説明しておくと私は東京ガイヤンツのスカウト部長だが、主に関西方面を担当している。住まいも大阪に構えているし、東京本社に行く機会は少ない。二軍の多摩川グラウンドに行くことなど一年に数回だ。一軍と違って二軍はイースタンリーグだから試合も観ていない。だからガイヤンツ首脳陣の話しか知らんのだ」
「それでいいから教えて欲しいんです」
「はっきり言って良い状態ではないな。君も知っているだろうが君にとっては先輩だった土井君。彼はイースタンの試合で甲子園優勝投手の江口を打ち込んだことでロビンスの一軍に昇格した。その試合で江口君の弱点が明らかにされ、イースタンでさえ一勝も挙げられずに一年目を終わろうとしている」
「例えばガイヤンツは江口を首にするなんてことはあるのでしょうか?」
「いや…ドラフト一位の選手を一年で解雇することはないだろう。最短でも三年は鍛える方針だ。まぁ、私の思惑通り君が入団してくれれば江口にとって刺激にもなるかもしれんな」
里中は岩田の言っていることは全て本当だろうと納得した。これ以上、岩田に江口のことを訊いても何も分らないだろう。
「分りました。俺は高校時代、試合では俺たちが勝っていましたが、俺と江口のピッチャーとしての勝負があるとすれば、常に彼に負けていたという意識があります。今は江口のいないノンプロで投げてますが、俺がプロ入りを望んでしまうのは高校時代に負け続けてきた江口に今度こそ勝ちたいという気持ちが強いからです。今度は同じチームで勝ち星でも防御率でも奪三振数でも何でもいい。江口に勝つためにガイヤンツへ行きたいって動機もあります」
岩田は嬉しそうな顔で頷いた。
「もちろん。君も江口君も、ガイヤンツの厳しい野球で生き残ることが条件だがね」と皮肉混じりに岩田が言った。この日に会談で里中繁雄の気持ちは東京ガイヤンツ一球団を志願する方向に変わっていった。