第125話 死闘!決勝戦●「本塁攻防戦」
文字数 2,750文字
でスリーアウトを取るんだ!幸い一番三振の取れない馬場をツーストライクに追い込んでいるんだ。打者の里中ならばお前が打たれる技量はない。田山を歩かせて二本松を三振に取る!岩城は三塁ベースに釘付けだ。ここを守りきれば俺たちが勝つ!」
マウンド上の江口、内野手を集めてキャッチャーの矢吹が激を飛ばした。ノーアウト、ランナー三塁という絶体絶命の局面で江口は弱気になっている。黒沢、赤川、滝ら二年生の主力組も緊張した表情だ。プロ野球の名選手でもピンチの守備では自分の守備範囲にボールが飛んで来ないように祈るという。
気を抜いたプレーでエラーも起こるが、ひりひりとした緊張感が引き起こす凡ミスも多い。矢吹は野手全員を少し緩ませなくてはいけないと考えた。
「レフト、ライトは、もちろんだがサードとファーストも聞いてくれ!サードランナーの岩城は、お前らも分かっている通り化け物じみた体力の持ち主だ。それに主将でありながら野球のセオリーを無視してくる。下手すりゃキャッチャーフライでもタッチアップしかねない。俺を吹き飛ばしても一点を取りに来る。あいつは、そういう奴だ。だからファールフライは絶対に追わないでくれ!そこでアウトカウントを一つ取っても一点取られたら意味がない」
矢吹は江口に向かって真剣に言った。
「このイニングは細かいことは抜きだ。青雲大付属野球部は江口!お前に賭ける!投げたいボールを真正面から全力で投げろ!間違って打たれても誰も文句は言わん」
江口はベンチを見た。監督の織田。顧問の天野は微笑みすら浮かべている。「お前に任せた」という表情である。ナインも同じだった。黒沢が声をかけた。
「江口さん。いくら由良明訓のクリーンナップだって気迫のこもったボールは、そうそう打たれるもんじゃないですよ」
江口は黙って頷いた。バッターは馬場である。すでにツーストライクを取っている。基本に忠実な馬場は、この場面でスリーバントスクイズはないと踏んだ。ミートの上手い馬場は速球に逆らわずに一塁方向に流し打ちを狙うはずだ…と江口は考えた。さらにカウント2-0からボール球を挟んでくると馬場は考えるはず。裏をかいて三球三振を狙う!と考えをまとめた。
ダイナミックなフォームから江口の投げた三球目は真ん中低めにずばりと決まった。馬場のバットは空を切り、見事に三球三振に討ち取った。
「速ぇえよ」さすがの馬場も悔しそうに呟いたのを矢吹は聞いた。これでワンナウト。ピンチは続く。三番に入っているのはセンターの里中である。
江口は、里中は外野手として出場しているが、この男の本性はピッチャーだと考えた。ピッチャーが打席に入った時に怖いのは野手経験しかない選手に比べ、この場面で自分ならば、こういう配球をすると仮想しているところだ。野手ほど打撃練習をしていなくてもピッチャーがタイムリーヒットや逆転ホームランを打つのは、その読みに勝っているのだ。
「ワンナウト、ランナー三塁…。こんな場面でピッチャーが投げないボール…?特に里中のような変則フォームの変化球ピッチャーだったら…」
江口は足元のプレートを馴らしながら考えた。あえてど真ん中に直球。外角に変化球…。一つだけ頭に浮かんだボールがあった。江口から矢吹にサインを出した。この二人がバッテリーを組んでから、このケースは珍しい。江口からサインを出すふりをしてベンチのサインを矢吹が伝えるケースがほとんどだった。矢吹は最初は驚いた顔をしていたが、江口の思惑を察して「任せておけ!」という顔で頷いた。
大きなフォームから江口が放った第一球は、なんと大暴投だったのである。普通、バッテリー間で、こんな馬鹿げたサインはない。しかし織田監督の意図でコントロールの良すぎる江口でも暴投はあると相手チームに思わせるため「わざと暴投しろ」のサインが決められていたのだった。もちろん使うのは初めてである。キャッチャー矢吹の「あ!バカ!こんな時に!」の叫び声が響く。バッターボックスの里中は反射的にボックスを外した。
ボールはバックネットに直撃するようなコースである。奇襲戦法の大好きな岩城はサードベースを飛び出しホームへと突っ込む。里中も左腕を回そうとした…瞬間。機敏な動きで横っ飛びしたキャッチャー矢吹が暴投ボールをキャッチ。そのまま一回転の受身を取ってホームベースに飛びついたのである。岩城は、このまま矢吹ごと吹き飛ばそうと突進した。彼の脳裏には中学時代の柔道で矢吹に完敗した借りを、ここで返そうという潜在意識もあった。
豪快なヘッドスライディングを見せる岩城。しかし矢吹も岩城のプレーは読んでいた。岩城の巨体とホームベースの隙間にミットを滑り込ませたのである。
「アウト…アウト!」
主審が高らかにアウトを宣言した。泥だらけのユニフォームで立ち上がった岩城は矢吹を直視した。一瞬、場の空気は緊張したが岩城は微笑んで矢吹に握手を求めた。
「また負けちまったな。お前は強い。さすがだぜ」
「冗談じゃねぇよ。こっちだって命がけだよ。キャッチャーにはマスクやらプロテクターがあって助かったぜ」
「これからベンチに戻って、みんなに謝らなきゃいけねぇ。これは俺の暴走よ。お前が後逸するのを確認してから飛び出せばよかったんだ」
「あぁ意地でも後逸できなかったぜ。お前のサヨナラホームランで負けるなら後悔しねぇが、こんなクロスプレーで負けたら悔やんでも悔やみきれねぇしな」
こういう場面で主審は「私語はつつしむように」と注意するところだが、ホームベースの土を払ったりしていて岩城と矢吹を咎めなかった。判定に関して癖のある主審だが、選手の熱意や友情は理解しているような人物だった。
一瞬にしてツーアウト、ランナーなし、由良明訓高校先取点のチャンスは一瞬にして消えた。打席の里中はセカンドゴロに倒れ、四番田山にも回らなかった。しかし、このプレーの中で里中は確信した。
「江口の大暴投は、わざとだ。暴投なんかじゃない。矢吹が飛びついて捕れるぎりぎりの距離を狙って投げた。絶対に失投じゃない。コントロールが良すぎる江口も、またには暴投すると思わせるように織田さんが仕組んだんだろう。もし俺が暴投したら、ごめん!とか、やべぇ!とか、反射的に声が出ていたし、顔にも出ただろう。江口は、そんな演技ができる器用な男じゃない。あいてはストライクゾーンのぎりぎりに最速のストレートを決めたような顔をしていた」
里中がベンチに戻るとネクストバッターサークルから見ていた田山が一言。
「やられたな」
と言った。田山も江口の暴投の裏側を見抜いていたのだ。