第18話 閑話休題●「これまでの筆者からの総括」
文字数 2,766文字
このプロットの構想は、かなり前からあった。「巨人の星」「ドカベン」「男どアホウ甲子園」等の様々な有名野球マンガを恥ずかしげもなくオマージュしながら、実在した2人のピッチャーの数奇かつ呪われた運命を一つのストーリーにすることだった。この2人の実在人物が一体誰であったのかは序文にも記した通り、最後まで明らかにするつもりはない。
ただ書き始めてみたら偶然にも1968年に開催された第50回夏の甲子園で1回戦に鳥取県代表の米子南高校と岐阜県代表の岐阜南高校が対戦していることを発見した。ちなみに実在した主人公たちは2人とも、この甲子園の前に惜敗しているので、1回戦の対戦は筆者のフィクションである。
とは言え学校数の少ない鳥取県代表が甲子園に出場することは珍しい。東中国地区として岡山県、島根県と併せた予選となることが通例である。50回という区切りの大会のため鳥取県代表高校の存在が記録されている。また岐阜県も東海地区に組み込まれることが多く、これまた50回大会ならではの対戦だったと考えられるのだ。
実際には、この2人の投手によるアマチュア時代の直接対決はない。しかし同じ1952年生まれで後に巨人軍に入団。偶然にも前後して同じ数字の背番号を背負い、決して良い形で巨人軍選手として終わっていない2人の奇妙な運命が筆者の興味を惹いた。また、ここではタイトルを伏せるがある野球マンガがあり、アニメ化されるほどの人気作だった。この主人公が高校中退ながらドラフト1位で巨人に指名されるのだが、この年の事実上のドラフト1位は2人の投手のうちの1人である。アニメ版こそハッピーエンドな結末だったが、某人気少年週刊誌に連載された結末は、なんとも悲劇的であり、奇しくも架空の人物と実在の人物の運命が似通っているというのにも、ぞおっとするほどの偶然性が見受けられた。
1968年のプロ野球界は言わずもがな巨人軍9連覇のうちの4連覇目の年に辺り、最も巨人が強かった時代と評される。「巨人の星」の作中でも入団当初、速球投手としての限界を感じていた主人公星飛雄馬が一番最初の魔球・大リーグボール1号を引っさげて、いいよいよプロ野球を舞台に架空の主人公が大活躍を始めるという設定であった。
この設定に関して全盛期の強い巨人にマンガの主人公まで入っては強すぎて面白くないとのツッコミが入ることがあるが、王、長嶋を中心に新人の高田も加え柴田、森、土井、黒江、末次とV9黄金のメンバーが出揃った野手陣に比べ投手陣は、堀内、渡辺等の右投手が奮闘する中、大投手金田正一は現役最終年度。高橋一三は発展途上と左投手の陣容は苦しい状況。またエース城之内は腰を痛めて戦線離脱。巨人の投手陣は星飛雄馬のような新星を求めていた時期でもある。
筆者の作中でも少しだけ登場させたが静岡商業の新浦壽夫投手が甲子園で準優勝投手となったのが、この年である。一年生であるが新浦投手は定時制から全日制へ編入していたため、2人の投手よりも一歳年上であった。このため最終学年では年齢制限により大会に出場できない点と、韓国籍により国体には出場資格がない点、また韓国籍のため外国人扱いができるという点から巨人軍は強引に新浦投手をドラフト外で入団させている。
高校中退で巨人に入団した新浦投手を「巨人の星」星飛雄馬とだぶらせて期待するファンも多かったが、江川事件の十年前から球界盟主の人気を使った強引な選手集めに非難を浴びせるアンチもかなり多かったという。新浦入団の顛末も江川事件の時に蒸し返されて巨人はかなり、その威光を失うことになった。
筆者が学生運動等について細々と触れていくのは、この時代を舞台にしたフィクション作品の中で野球モノなどになると学生運動の部分が抜け落ちていることに違和感を覚えたからである。
この1968年こそは黄金のドラフト会議と呼ばれ法政三羽烏、田淵、山本浩二、富田、明治大学の星野仙一。高校卒では東尾修。ノンプロからは阪急黄金期を作る加藤、山田、福本らを輩出している。翌年から72年ぐらいまでドラフトの目玉は高校生か社会人野球が主力となり、大学野球出身者は激減、また大成した例もあまりない。
これには学生運動の影響により、高校生の有望選手をスポーツ推薦する枠が一時的に廃止されたり、高校生達が大学進学を視野に入れなくなった現象もあるのだ。この50回大会に出場した高校球児たちの脳裏には「プロかノンプロ」という選択肢を迫られており、甲子園がダメなら六大学野球で…という風潮は薄かったのだと推測する。
その学生運動と同期した流れとして音楽についても細々と触れていきたい。50年代の親しみやすいポップスからビートルズの登場。さらに不良っぽさを前面に打ち出したローリング・ストーンズの登場から、ベトナム戦争の影響で政治的メッセージを加えるようになり、ラブソングよりもプロテストソングが流行したのが、この時期でもある。
陽気でポップなビートルズは「サージェント・ペパーズ・ロンリーハート・クラブ・バンド」や「ホワイト・アルバム」等のいささか難解な音楽へとシフトしていく。同様にローリング・ストーンズも「ストリート・ファイティング・マン」など政治的なメッセージを歌う。クリームやジミー・ヘンドリックスの登場は、それまでの陽気な洋楽の印象を難解で芸術的な音楽へ印象を変えていったはずだ。
筆者には野球選手などは比較的ノンポリであり、ベトナム戦争等に無関心だったという論理に反論したい。若者だからこそ同世代の別の動きは横目で見ていたはずだし、急激に変化していく若者文化に対応しようとした者もいたはずだと信じたい。1967年にはサンフランシスコでヒューマン・ビーンとサマー・オブ・ラブによってヒッピー・カルチャーが本格的に始動。これこそ69年のウッドストック・フェスティバルの始動篇と呼ばれている。日本では馴染みのないグループだがグレイトフル・デッドの登場も、この時期である。
保守的なキリスト教社会の真逆を行くようにヌード写真の横行やフリー・セックスの主張などが社会活動として大真面目に行われたのだ。日本の保守層はアメリカの自堕落な若者たちと非難する声が大きかったと思うが、アメリカのヒッピーが社会と自分との間の苦悩からドロップアウトする活動であったことは日本でも敏感な若者は察知できたはずだ。
そんな時代の息遣いを野球中心の物語に加味していくのは想像以上に至難の作業ではあるが、前人未到の理想として、この一面も組み込んでいきたい。
それでは次章からは本編に戻って岐阜青雲大学付属高校対由良明訓高校戦へと進めていこうと思う。天才江口敏対明訓四天王の直接対決を描くのは筆者にとっても楽しみなのだ。