第210話 閑話休題14●「斎藤一族について」
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精神科とか神経科という呼び方をしたのは平成初期までだろう。心療内科と言う時期もあったが、現在ではメンタルヘルス科という呼び方が普通になった。特に精神科とか精神病院という呼称に、いささか差別的及び侮蔑的な印象を受けるというのがあったのだと思う。昭和時代などは精神病を遺伝と考える傾向が強く、例えばある家庭に現在で言うところのメンタルを患った子が育ったりすると「あの一族は基地外の子が生まれた。親族の中に基地外がいるに違いない」などと陰口を叩かれたものである。
深刻な話としては、それが原因で結婚や婚約が解消されるケースも、昭和時代には多かったはずだ。これには被差別階級の問題も関係してくるので、現在でも非常にデリケートに扱わなくてはいけない。例えばメンタルヘルス科と呼ぶ呼称には「現在のメンタルヘルスと昔の精神病とは別物である」という意味合いが込められているように感じる。
最近、言わなくなったのはノイローゼという病名だ。現在では神経症の一つで軽度の症状を指すようだ。ところが昭和五十年代までの新聞記事などを調べると「大学受験失敗を苦にした浪人生がノイローゼで自殺」などという記事が掲載されている。別に受験生だけではなく、隣の工事現場の音がうるさくてノイローゼになった…とか近所の主婦がゴミ出し等に厳しくてノイローゼになった等の事例も多かった。
今になって思うと、この時期のノイローゼこそ現在のヘンタルを壊した状態と同じような状態だったではないか?と考える。筆者は北杜夫氏のエッセイの中で「よくノイローゼで自殺したというが、あれは間違いで自己愛の強いノイローゼは自殺をしない」という一説を読み。あぁ…そんなものか…と納得した。
北杜夫氏のことも、最近は忘れられた昭和の文豪程度の認識になってきているので、とりあえずの解説をしておくが、北氏の祖父が精神科医であり、斎藤茂一という人物である。この人物が大正時代に青山脳病院という精神病院の創始者だ。現在はコムデ・ギャルソンのある辺りというから、凄くお洒落な印象があるが、当時は青山墓地が見渡せる原っぱであり、武家屋敷などがポツポツと残っていたそうである。
この茂一氏の病院経営はかなり敏腕で関東大震災、及び火事等で青山脳病院を焼失した後、世田谷に広大な土地を買い。そちらを分院として繁栄させている。ちなみに、その分院が現在の都立松沢病院になっていて、我が国の精神医学の最高峰となっているのだ。京王線八幡山駅から、ほど近くにあり、その広大な敷地は今見ても、なかなか凄いものがある。
また大正時代としては先鋭的な考え方を持つ茂一氏は最新鋭の精神医学を学ぶためにドイツに留学している。その日本へ帰国する船の中でイギリス留学から帰国する夏目漱石と知り合っていたのである。茂一氏はイギリスの文化に馴染めず、陰気に引き篭もっていた漱石の相談相手となり、帰国後も鬱病気味であった夏目漱石の主治医を務めている。この偶然こそが斎藤一族と日本文学界に太いパイプを作り上げた。
茂一氏は実子もいるが山形の田舎で神童と呼ばれた秀才を養子にした。その養子こそが後の歌人「赤光」などの代表作を持つ斎藤茂吉となる訳だ。茂吉氏は茂一氏の病院を継ぎ院長を務めながらも数々の短歌で文壇にも躍り出る。この時に茂吉氏の才能に注目したのは芥川龍之介である。歌人として評価されている斎藤茂吉であるが、芥川龍之介は茂吉氏に小説を書かせようと説得していたという逸話もある。
知られていることだが芥川龍之介は夏目漱石の弟子でもある。師匠と同様に精神病を患っていた芥川龍之介の主治医は斎藤茂吉だった。奇しくも養父の跡を継ぎ文豪の主治医として、そして友人として茂吉氏は接してきたのであろう。一説によると芥川龍之介の自殺の原因に茂吉による薬の処方ミスだという説がある。これは後に茂吉氏が残した随筆や茂吉氏の長男である斎藤茂太氏の著書。そして次男である北杜夫氏のエッセイに書かれていることだが芥川龍之介が自殺した直後に茂吉氏は「俺のせいだ…」と嘆いていたと記されている。ちなみに北杜夫氏の本名は斎藤宗吉と言う。茂太先生が茂吉の茂を受け継ぎ、次男の北氏が吉を受け継いだ名前であった。
「どくとるマンボウ青春記」などの北杜夫氏のエッセイの中には茂吉は北氏に文学を目指すことを反対しており、外科になるように薦めていたという。実際、北氏が作家として頭角を現すのは茂吉の死後、慶応大学の医局時代からである。要するに若き日の北杜夫は精神科医をしながら、その隙間に文学作品を同人誌などに掲載していた。「文芸首都」という同人誌には北氏、同じ慶応大医局のなだいなだ氏。父に佐藤紅緑氏、義兄にサトウハチローを持つ血筋の佐藤愛子。また、たった一冊の純文学作品で芥川賞を受賞し、その後は官能小説の人気作家となった宇能鴻一郎など、錚々たる若き才能が終結していた。
芥川賞候補になるも惜しくも落選を続けた北杜夫氏だったが1960年に「夜と霧の隅で」で、とうとう芥川賞受賞作家の仲間入りをする。同年、医学論文によって博士号を取得。これだけでも、なかなかの偉業だが、水産庁の調査船の船医として乗り込んだ経験を元に書かれた「どくとるマンボウ航海記」が爆発的なヒット作品になる。ナチス支配下ドイツの精神病院で行われた人体実験等を描写した重く暗い「夜と霧の隅で」を執筆中に体調を崩し、それならば気分転換に軽い旅行記でも書いてみようと試みた航海記は未だに北氏に代表作として残っている。
祖父が夏目漱石。父が芥川龍之介。と続いた文豪の主治医という連鎖も北杜夫氏が受け継いだ。文壇でも、その才能を輝かせていく北氏に着目し、主治医として文学者の先輩として付き合ったのが三島由紀夫氏である。北杜夫作品中、最高傑作と呼ばれる「楡家の人びと」には三島氏による推薦文が記されている。
北氏側による三島由紀夫氏からの書簡などは北氏のエッセイに幾度となく残されているが、常に三島氏が北氏を「ドクター」と呼んでいるのが印象深い。北氏にも躁鬱病があり、悪いタイミングで三島氏の文章を批難したため、その後は不仲になったとある。この不仲の原因は三島由紀夫の代表作「仮面の告白」の冒頭にある。何も後半まで読み進めなくとも、現在、手に入る本の1ページ目に、その箇所は発見されるので興味のある人は確認して欲しい。
それは「てふど」という表現である。三島氏は戦後派の文学者だが歴史的仮名遣いで文筆する。蝶々を「ちょうちょう」と仮名で記述するのが現在の仮名遣いだが「てふてふ」と記す。すなわち「てふてふ」と記されていれば「ちょうちょう」と読む訳だ。北氏の指摘は「てふど」は間違いで「ちやうど」ではないか?というものだった。これを現仮名遣いにすると「ちょうど」である。三島氏は「江戸時代の記述には、てふどと書かれている文献がある」と主張し、北氏は「江戸時代は言葉がかなり乱れました。江戸時代の仮名遣いを歴史的仮名遣いとするのは間違いです」と反論したことが不仲の始まりだったという。
ちなみに、この「てふど」「ちやうど」の論議であるが、志賀直哉、最後の弟子。北氏とは親友であった作家の阿川弘之氏は「ちやうど」が正しいと判断している。「山本五十六」「米内光政」「井上成美」旧日本海軍提督モノが阿川氏の代表作であるが、ドキュメンタリー半分、小説半分というバランスで書かれた名作である。戦後文学界で最も日本語の文章が上手いのは阿川弘之氏という説があり、筆者も勉強のために三部作は読んでみた。悲しいかな筆者の幼稚な頭脳で吸収できるレベルの作品ではなかった。
現在でも才女タレントとして活躍されている阿川佐和子さんは阿川弘之氏の長女である。佐和子さんの物言いなどを聞いていると、明晰な頭脳はやはり血筋の中に脈々と流れるものだなと感心してしまうこともある。
余談だが北杜夫氏の兄である斎藤茂太先生も病院院長、病院経営の傍ら様々な執筆物を残されている。精神科医として「心が楽になる…」という系のハウツー本は、今でこそ不況の出版界で、そこそこの売り上げを期待できるジャンルとして生き残っているが、前出のなだいなだ氏と並び、これらのハウツー本の発火点は茂太先生だったのではないか?と考える。