第119話 激闘!甲子園●「私の身体をすり抜けた男達」
文字数 2,980文字
時間は八月十六日の午後十時を回っていた。朱美の勤めるデパートもヨーコの勤める定食屋も日曜日の繁盛時間が終わり、ようやく落ち着くのは、この時間である。朱美とヨーコは名古屋の繁華街にある深夜喫茶で落ち合うようになっていた。
「そりゃデパートの月曜日は暇そうに見えるけど、日曜日に売れた分の補充とか、新製品の入荷や補充商品の発注とかで目が回るぐらい忙しいんだから!とても休めないわよ。それによりによって甲子園の決勝戦で由良明訓と青雲大附属が当たるなんて流行りのスポーツ根性マンガみたいな話よ。当日券なんてある訳ないじゃない」
「そりゃそうか!新聞見ても宿命の対決とか書かれちゃってるもんね。あ~あ…なんか中学の頃が懐かしいな。あの矢吹が甲子園の決勝で注目されているなんて!それに愛徳に行った加藤と中間まで甲子園に出ちゃったもんね。朱美は里中君からの手紙とか来てないの?」
「来てない…と思う」
「思うって何よ?」
「前の事務所になんか顔出してないもの。今の就職が決まった時に親から借りてアパートに引っ越したの。今の私の住所を里中は知らないのよ。まぁ、あの男が手紙なんか出すとは思えないけど、事務所に手紙出されても私のアパートには届かないわ」
「事務所の女の子には黙って辞めたんだっけ?じゃあ朱美の方から里中君に手紙出したりしないの?」
「出さないわよ。里中の家の住所なんか知らないもの。どうせ年がら年中、合宿にいて家にも帰ってないでしょうしね。ファンじゃあるまいし由良明訓高校宛に手紙なんか出さないわ」
朱美は少し憤慨したようにタバコに火をつけた。化粧品売り場の売り子は上司から厳しく化粧の指導をされる。深夜喫茶にいる店員も他の客も朱美がまだ十八歳だとは気付かない。
ヨーコの方は飲食店の厨房詰めな今、髪の毛も黒く戻り、ほぼ素顔のままで働いている。ただ一日中、料理を作り続け顔も髪の毛も油が浮いている。まだ子供っぽさが残るヨーコの顔も、疲れた中年女性のように見えてしまう。
「結局、朱美と里中君の関係って何だったの?」
「うん…何だったんだろうね。私も普通の高校生で里中も普通の…高校球児でも甲子園目指して頑張っている程度のチームだったら、素敵なカップルになれたのかもしれないね。それより、ヨーコと江口君だって、どうなっちゃったのよ?」
「恋人だったのかな?自分でもよく分からない。ただ身体の大きな子供みたいな江口君は可愛かったけど、やっぱり頼りないのよ。親が決められた野球をやって、先生や監督の言うとおりに投げて、矢吹君がいなかったら何も出来ない。私だって、そりゃ高校球界ナンバーワンの豪腕ピッチャーと付き合うなんて素敵…なんて思ったけど、結局は江口君にとって私は朱美の代わりでしかなかったはずよ。勃つちゃうアソコを鎮めてくれれば誰でもいいんじゃない?」
「あれは矢吹が悪いのよ!江口君に変な度胸をつけるために童貞を卒業させとく…なんて馬鹿げてるわ。その矢吹に復讐するために私は里中に近づいた。それだけの話よ」
「復讐になったの?」
「分からない。でも、もう矢吹にも未練はないわ。ヨーコも何度か会ったじゃない?内川亜紀って真面目な子。ああいう純粋な女の子と真剣に恋愛してみりゃいいのよ」
「あぁ!亜紀ちゃんね。青雲大附属野球部のマネージャーになったんだっけ?明日は甲子園にいるんでしょうね?」
「どうかな?大会前に亜紀さんとばったり会ったのよ。丸大デパートの近くの予備校に通ってるんだって。応援には行っていると思うけど、三年生は大学受験で大変なのよ。マネージャーは下級生に任せたって言ってたわ」
そこへウエイターがスパゲッティ・ミートソースとエビピラフを運んできた。深夜喫茶では、このような簡単な軽食しか出されない。ヨーコがピラフを一口食べて
「これは冷凍のピラフを温め直しただけね。私が作れば、もっと美味しいわ」
「だったらヨーコが夜中でも美味しい料理が食べられる店を始めたらいいじゃない?名古屋、大阪、東京でやればきっと大繁盛すると思うわ」
朱美の突き放した物言いにヨーコは軽く笑った。
「ねぇねぇ。朱美はさぁ。江口君と里中君だったら、どっちが良い野球選手になると思う?どっちが良い男じゃないわよ。単純に野球選手としての話よ。どっちが良い男かって言ったら里中君に決まってるでしょ?顔だけの話じゃなくってね」
「そりゃ…決まって…」と言いかけて朱美は口をつぐんだ。これは簡単には答えられないと思った。マスコミが報道するプロが注目する選手と言えば田山三太郎、江口敏が断トツである。続いて岩城、馬場辺りが注目されていて矢吹と里中は、その下という評価の序列だ。単純にピッチャーとして比べたら江口が圧倒的に評価されている。
ただ多少なりとも二人を知っている朱美にしてみると、答えは難しい。父親に何一つ不自由せずに育てられ、英才教育を受けた江口。野球部のない中学でソフトボール部に甘んじ、自ら飛び込んだ強豪野球部。馬鹿にされながらも一年生の時にレギュラーを勝ち取った里中。あまりに対照的な二人である。
三年生になった頃から里中はピッチャーよりもセンターを守る機会が多くなり、俊足の好打者として出場するようになった。これは逆にピッチャー里中の評価を下げる結果になった。ただ朱美には頭の切れる田山や監督の土井がピッチャー里中を切り札として温存しているように見えた。その切り札を出す前に他校に比べて圧倒的に強い由良明訓が勝利を確定してしまうのだ。
「どう?二人を知っている朱美からしたら、どっちが良い選手だと思う?」
悩む朱美を見て、ヨーコが冷やかすように答えを催促した。
「現時点でピッチャーとして二人を比べると江口ね。ただ一年後、二年後には分からないわ。負けず嫌いの里中繁雄が結果的には江口よりも上になりそうな気がするの。ま…何にしろ、彼らはプロ野球選手になるんだろうし、私たちにとっては、まずます遠い存在になると思う」
「遠い存在…」と言いかけて陽気なヨーコの顔から急に笑いが消えた。
「なんかね…時々、嫌な予感がするのよ。男と女として…っていうんじゃなくて普通に友達でいいんだけど、早く会っておかないと江口君と二度と会えなくなっちゃうんじゃないか?って…それで無理を承知で、明日は甲子園に行ってみようかって言い出したの…」
「それってプロ野球選手としてスターになって近寄れないなるってことじゃなくて?」
「それなら嬉しいよ。例えば江口君が大成功してアメリカの大リーグの選手になったって会うことは出来るかもしれない。里中君が何年か後にプロのマウンドに立っているのが見えることもある。田山さんも、そう。寝ようとしている時にふっと田山さんがプロ野球の試合でホームランを打っていたりする。でも江口君だけが見えないのよ。なんか明日が江口君の見納めだぞ!って誰かに言われたような気がするの」
朱美は驚いた。ヨーコに、そんな占い師や魔術師のような不思議な力があるとは想像もしていなかった。ただ、この時は、あまりにも荒唐無稽過ぎて何の実感も湧かなかったのだ。