第167話 変革●「二軍ブルース」
文字数 3,104文字
今では東京ガイヤンツ不動の一番バッター、日本人初のスイッチヒッターとして長岡、司馬に次ぐ人気選手となった芝山が二軍時代に作った歌である。練馬鑑別所で歌われていた「ねりかんブルース」の替え歌であったが、いつの間にかガイヤンツ二軍選手の間で口ずさむ歌として広まった。
特に期待をされながらも二軍戦で結果を出せない選手にとって身につまされる歌詞であった。松映ロビンス戦で醜態を晒した江口敏に聞こえるように、わざとこの「二軍ブルース」口ずさむ先輩もちらほらいた。甲子園優勝投手。栄光のドラフト一位の江口の存在は先輩投手陣にとって、煩わしい存在である。有望な新人の登場は自身の立場を危うくする脅威でしかない。
高校時代、チームでは宝物のように扱われてきた江口にとって、このガイヤンツ二軍の雰囲気は生き地獄のような日々になってきた。0勝4敗。この成績では七月のジュニアオールスター戦への選出もない。甲子園を騒がせた剛球左腕投手だけに、けっこうなファン投票はあったものの、松映ロビンス戦で猛打を浴びたことで投票も止まった。その試合をきっかけに土井がロビンスの一軍に昇格したことでクリッパーズの田山。リンクスの岩城と高校時代のライバル達は華々しい活躍はないもののプロの一軍に喰らいついている。
内野手への転向を命じられたドラフト二位の大西。ドラフト三位で外野手の淡谷は、いつの間にか行動を共にする仲間になっていた。代打要員から結果を出し、二軍とは言え打順も六番から五番に上がった淡谷は新人組の出世頭となり、オールスターにも選出された。
淡谷は江口にとって入団初日から暖かく接してくれる唯一の存在だった。敵意剥き出しの大西と正反対の性格で、江口は食事でも風呂でも淡谷を探しては行動を共にした。だが、こうなってみると淡谷の優しさが妙に煩わしいのである。
「あの芝山さんだって入団当初に、めった打ちされたんだ。その時に作った歌なんだろうけど、スイッチのできる俊足の外野手として復活したんだ。江口君ほどの才能があれば、きっと凄い戦力になるよ」
などと言われる。淡谷に悪気はないことは判っていても、どこか見下ろされ馬鹿にされているような気分になる。大西は大西で
「長尾二軍監督が野手転向を指示しないのは、まだ首脳陣が江口をピッチャーとして再生させようって計画があるからさ。練習球だけで投手失格で内野手転向と言われた俺に比べりゃ、かなりマシじゃないか?江口のスピードとコントロールの凄さは俺なんかとは評価が違うんだ」
と言う。たぶん大西には悪気はない。ただ夜、早く眠ろうとすると「俺というライバルを乗り越えて、お前はピッチャーとして選ばれたんだ。だからお前は一日も早く一軍のピッチャーとして活躍できるようにならなきゃ駄目だ!」と叱咤激励されているような気がしてくる。そう考えると眠れなくなる。少しウトウトとし始めると、決まって夢を見る。
キャッチャーのサインは内角高めだ。「ボールになっても構わん。バッターを仰け反らすような内角球で腰を引かせて、お前の得意な外角低めにズバリと決めろ!」長尾監督は決まって、その一言を言う。懸命に内角高めを狙う。しかしボールは、そんな江口をせせら笑うように真ん中の絶好球になる。バッターはニヤニヤしながら、そのボールを長打にする。「この馬鹿やろ!サイン無視だぞ」とキャッチャーが怒鳴る。「ベンチに戻ってきたら、ぶん殴ってやる!」と長尾監督が叫ぶ。次のバッターこそ、俺の速球を内角高めに決めてやる!と決心して、必死に投げる。剛速球がバッターの顔面に直撃する。顔がザクロのように裂けて鮮血が飛び散る。
大抵、夢はここで終わる。汗だくで目が覚めると時計は午前三時を指している。同室の淡谷は熟睡中だ。二軍の外野手としてレギュラーになりつつある淡谷は疲れている。どの新人選手も高校、大学、社会人の野球部で厳しい練習を積んでいる。ちょっとやそっとの練習じゃ弱音は吐かない自信がある。しかし東京ガイヤンツのキャンプ初日に、その自信は崩れる。練習前のランニング等の基礎練習だけでも長くて、なかなか終わらない。
岐阜青雲大学付属高校は、それなりに猛練習をしていた。ただ基本的には進学校であり、織田が監督に就任した後でも他校のような長時間の練習はしていない。江口と矢吹は他の部員に気を使って余裕を持った練習だけをしていたのだ。それだけにガイヤンツの練習は江口にとって厳しいものだった。
二軍戦が始まると、日中の試合を挟んで猛練習が待っている。こんな時間に熟睡している淡谷を起こす訳にはいかない。岐阜は良かった。夏でも夜になると少し肌寒いぐらいに気温は落ち着く。都心を離れた郊外にあるガイヤンツの寮でも東京の蒸し暑さは寝苦しい。常に疲労感が身体中を支配しているように感じる。これでまた起床時間になると半分ぼんやりした気持ちで練習を開始しなくてはならないと想像すると、ますます辛くなっていく。
夕飯は、しっかり食べたつもりだったが、すでに腹は減っている。ガイヤンツの寮の廊下には大きな冷蔵庫が置いてある。若手選手のための間食用の冷蔵庫だ。これは球団から選手への配慮とも呼べなくないが、深夜にラーメン等を食べに出かけ門限時刻を守らなくなる選手を出さないようにする管理方法でもあった。
ハム、ソーセージ、ヨーグルト、牛乳、サラダ等が常に補充されている。寮長は厳しく鬼のような人物だが「まだ若い選手達だ。夕飯を食べても寝る頃にはお腹がすくこともある」と考え、常に補充してくれている。これだけは、どんなに食べても怒られることはない。厳しい表面の反面、その選手も自分の息子のように大事にする寮長の優しさである。
このところ数日、明け方になると江口は冷蔵庫に行き、ハムやソーセージをむしゃむしゃと食べた。お腹が膨れれば眠くなるだろうという考えだ。だが冷たいハムを温めもせずに一人で食べていると知らぬ間に涙がぽろぽろと流れている。どうせ明日もコーチや監督に言われることは決まっている。
「外角のコントロールは一軍エース級なのに、なんで内角には投げられないんだ?死球を出したくないのなら、当たらないコースを狙って投げ込むことも、お前なら出来るだろう?」
という一言だ。
「出来るもんなら、とっくにやってます!僕だって投げたいんだ。江口だってバッターを仰け反らすような内角攻めが出来るんだ!って思わせたい。でも…どうしても駄目なんです。速い球を投げると真ん中に行ってしまう。無理して内角に投げるとキャッチボールみたいな球になってしまう!」
と言い返したくなる。そんな考えをしているうちに「僕はプロ野球のピッチャーとして失格なんだ」と思えてくる。そろそろ周りの選手のことも江口には見えてきた。ボールにスピードのないピッチャーは走り込みやフォームの矯正をして球速を上げる練習に取り組んでいる。変化球の欲しいピッチャーは変化球を投げ込んでいる。コントロールの悪いピッチャーは的に当てる等の練習をしている。みんな、それぞれ明確な課題があり、それに向かって努力をしている。
「僕は一体何を練習すればいいのだろう。僕の欠点は練習で克服できるのか?」
そう考え始めると、ますます眠れなくなり、やがて空が明るくなってくる。今日も、また長尾監督やコーチに何かを怒られるのだ。その何か?さえ、江口には分らなくなりそうだった。