第138話 狂気の延長戦●「ゲームセット」
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天野の頭脳は、この後にあった。キャッチャー矢吹には「サード!」と叫びながら、実はショートの黒沢に送球させる。この時にサードの滝が慌てて「悪送球」とランナー里中に思わせることが目的だったのだ。
里中が今まさにホームベースを踏もうとした瞬間。ショートからキャッチャーに返球されたボールでタッチアウトとなった。主審は高らかに
「ゲームセット」
を宣言した。呆然とホームベース前に立ちすくむ里中。左バッターボックスの田山も呆然としている。田山、岩城、馬場、里中が入学して公式戦、練習試合全ての試合で勝ってきた由良明訓高校野球部が初めて味わった敗北の味は準優勝などという称号を与えられても何の嬉しさもなかった。
両チームが整列し、お互いに礼を交わす際に田山は江口に
「やったな!おめでとう。でも俺の打席はワンストライクで止まってる。この続きはプロでやろう」と言った。
「あぁ。そうしたい。でも僕の夢はプロに入ったら田山君にキャッチャーをやってもらいたいんだ。長岡さんや司馬さんと二人で対決したい」と江口は返した。
岩城と矢吹は両チームのキャプテンとして列の先頭にいる。岩城は
「中学も高校も、お前に負けるとは」
と矢吹に言えば、矢吹の方も
「何言ってんだ。俺からしてみりゃ野球じゃ一勝三敗だ。負け越しじゃねぇか」
と返した。江口と田山がプロ野球を舞台に再会することを誓うのに対して岩城と矢吹は、これでお互いに別の道に進むことを知った上での決別を意味していた。二人とも目尻に涙が浮かんでいたのを、それぞれのチームメイトは見た。
江口が里中の元に来た。
「君も来るだろう?プロ」と訊いた。
「あぁ…そうしたいが江口のようにピッチャー一筋で出来なかった俺の評価は微妙みたいだよ。どこかが指名してくれるといいんだが…」
「背番号は八番でも里中君はピッチャーが一番向いている。浜君、二本松君も、これから頑張って!まだまだ凄いピッチャーになれるはず」
浜と二本松が江口に挨拶をした。江口は二人に
「浜君は僕の真似は止めて自分のピッチングを極めるべきだ。二本松君は、丁寧に投げることを覚えればいい。それに池田君を含めて、これからが大変だね。偉大な先輩達が卒業して由良明訓が弱くなったなんて言われないように三人で強いチームを作ってくれ!」
と諭した。浜、池田、二本松は、その言葉を噛み締めた。
ベンチ裏で勝利監督インタビューを求められた織田はテレビ局の取材を固辞。
「本当の勝利の采配は、あちらの方だ」と言い、天野を指差した。お陰で口下手な天野は試合を決めたトリックプレイを解説しなきゃならないハメになった。
「一つ間違えれば同点どころか逆転されていた賭けのような作戦でした。ただし条件だけは揃っていたんです。三塁ランナー、左ピッチャー、左バッター。それにツーアウト。もし右ピチャーならばピッチャーがサードランナーに牽制すべきです。キャッチャーがサードに返球すること事態が余計なことになります。もし田山選手が右バッターならば、この作戦は敢行しません。キャッチャーからサードへは打席のバッターが遮るので、投げる訳がありません。またワンナウトだったらランナーの里中選手は三塁ベースから離れなかったでしょう。こういうプレイが、ごく自然に見えるためには、この条件が必要だったのです」
記者は「では田山選手が空振りしなかったら、あの作戦もなしですか?」と訊く。
「はい。私は唯一、一球だけ江口選手に田山選手と勝負させました。それだけは悔いの残らないように全力投球。それもストライクで投げろ!と伝令に伝えたのです。十六回の江口君の気迫ならば田山選手でも空振りさせられると思ったからです」
「もし打たれていたら同点ですよね?」
「覚悟の上です。田山選手の実力からしたら、この逆風の中でもホームランを打ちサヨナラ負けになることも覚悟していましたよ。勝ちに行くなら敬遠ですが、プロ野球じゃない。江口君にしても敬遠して勝っても意味はなかったと思います。私は指導者として勝てば良いという教育はしたくなかったのです」
「それでは、その前の隠し球は?勝つための手段ではなかったのですか?」
「皆さんもご存知の通り、由良明訓高校の土井監督。そして現在の三年生の選手は、私のパートナーでもあります織田監督の教え子です。織田監督の厳しい教えを受けた彼らなら、隠し球なんて策は見破られると信じていました。青雲大付属ベンチから伝令が出たことで由良明訓も疑心暗鬼になります。あえて間違った答えを見せてあげたのが隠し球です」
「ではキャッチャーの暴投作戦が失敗した場合。天野さんはピッチャー江口君への指示は敬遠ですか?勝負ですか?」
「もちろん勝負です。織田監督も同じ意見です。仮に田山選手にサトナラホームランを打たれても後悔はしなかったです。それは江口も同じでしょう」
「では秋からは新チームとなりますが、再び甲子園で岐阜青雲大学付属高校野球部の姿が見られるのでしょうか?」
「何とも言えません。当校は進学校です。野球部員でも学科成績が悪い生徒は練習、試合出場禁止をします。その教育方針だけは変わりません」
同時に由良明訓高校野球部土井監督にもインタビューが行われた。
「私自身の高校三年時。そして今大会まで五大会連続で甲子園出場が出来たことは幸せに思っています」
「前人未到の五連覇は逃しましたが?」
「私にとっても選手にとっても、この敗北は、この後の人生において大きな教訓になるでしょう。むしろ優勝しなくて良かったと思える日が来るのかもしれません」
「最後はトリックプレーで終わりました。それについては?」
「野球のルールを最大限に利用した作戦です。見事でした。見抜けなかったのはランナーの里中選手ではなく、ベンチの私の責任です。まだまだ監督として自分は未熟です。今日の敗戦を機会に、野球部の監督は辞任いたします」
「一部で噂されている土井監督自身のプロ入りですか?」
「それは、この場でお答えできません。これから学校側と話し合い、後任の指導者への引継ぎなど含めて進路を考えます」
「田山、岩城、馬場、里中選手らが卒業しても由良明訓高校は強い野球部を存続できますか?」
「二年生の浜、池田、小杉、土屋。それに一年生では二本松など有望な野球部員は残っています。彼らが今大会以上に素晴らしいチームを作ってくれると信じています」
記者は、まだ何か聞きたかったようだが、土井は深く一礼をすると記者から逃げるようにロッカールームへと立ち去った。主将岩城を中心にナインが土井を出迎えた。
「みんな。ありがとう!いや…本当。強かったな!俺たちは!あんまり強かったんで俺は五年も高校野球をやってしまったよ。これからは俺も先に進む!こんな素晴らしいメンバーと五回も甲子園に来れたことを誇りに思う!」