第82話 二度目の夏編●「大声援」

文字数 2,601文字

 1969年8月9日。第51回全国高等学校野球選手権は開会式を迎えた。マスコミの加熱は凄まじいものがある。折りしも同日、日本の漁船がソ連の軍艦と衝突するというショッキングな事件があったにも関わらず「宿命の対決。由良明訓高校対岐阜青雲大学付属高校。三度目の決戦は何時?」をスポーツ誌ではないにも関わらず一面に躍らせた新聞社もあり、一部には批判の声も上がった。
 面白くないのは他の二十八校である。一際、大きな声援を送られる由良明訓と青雲大付属に嫉妬の視線が注がれる。開会式の選手入場前でも、この二校には兵庫県警が警備に当たった。人気や注目を集めれば同様にアンチも増えていく。
 「明訓なんか負けちまえ!」「江口!打たれろ!」「里中!カッコつけるんじゃねぇ」等の口汚い野次も目立ってきた。中には関西らしく「田山!腹減ったろ!たこ焼き食うか?」等、ユーモラスな野次も混じっていたが、矢吹と岩城への野次は下品極まりないモノが多く「お前ら三振しに甲子園まで来たんか?下のバットは何割や?」「大阪の女子高生を妊娠さすなよ!三振王」等、プロ野球顔負けの野次も飛び交った。
 そんなアンチの野次をも圧倒するのが、両校に対する大声援である。女の子たちの黄色い声援こそ、一年前には里中繁雄にだけ集中していたが、アンコ型の田山、巨漢の豪傑岩城、里中とは対照的に痩身だが不細工な馬場にも人気が高まっていた。予選で投げているため一年生の浜も女性人気を集めていた。
 もちろん青雲大付属も江口敏を筆頭に矢吹。セカンド黒沢、ショート滝の二遊間を固める一年生コンビにも声援が集まった。昨年の夏、そして選抜と二大会続けて由良明訓に敗れている青雲への判官びいきからか、青雲勢への声援が上回るような現象も起きていた。文部大臣による始球式になっても、その声援は収まることはなかった。
 甲子園球場の係員も球場周辺のパニックを避けるため、由良明訓、青雲大付属の二校の選手は第二試合終了まで球場内に待機させられた。奇しくも球場の食堂は二校の待機場所となり、ナインは久しぶりに顔を合わせたのである。江口は田山と矢吹は岩城と談笑している。土井監督は織田監督に深々と礼をすると織田も土井の手を握りガッチリと握手をした。織田は皮肉気味に
 「まぁ今大会も王者由良明訓高校の胸を借りれるように努力するよ」
 「勝負ですから判らんですよ。弱いチームが強いチームに勝ってしまうことがあるのが野球ですから」
 そんな会話が交わされた。野球部員達には矢吹がチームの分け隔てなく様々なことを注意喚起している。
 「ここまで騒がれると俺達は、もう普通の高校生じゃないんだ。明訓の奴等にも言っておくが夜の外出は控えろ!どうしも外出の必要がある時は五、六人で固まって歩けよ。岩城なんか絡まれて喧嘩とかしそうだから、あの馬鹿には三人ぐらい一年生を付けておけよ!くれぐれも、これだけ人気が出ると、それを気に食わない奴が増えてんだ」
 「うるせぇ!矢吹!俺はなぁ。田山と違って逃げ足も速いんだ。立場は十分に理解してるぜ!俺のせいで出場停止じゃ五大会連続制覇が水の泡だぜ」
 「まぁ喧嘩を売られるとしたら俺か岩城ぐらいだろうな。江口はもちろんだが、里中や浜もファンレターは絶対に自分で開封するなよ。なぁ里中よ。封筒に仕込まれたカミソリで指先を痛めたしりたら自慢のシンカーが台無しだぜ」
 矢吹に、こう言われて里中は苦笑した。
 「まさか矢吹君に、そんな心配されているとは思わなかったよ。見た目によらず、けっこう親切な男なんだな。ご心配なく、一年生には悪いが封筒の開封は彼らの役目さ。それに岩城も、けっこう足は速いが、俺は、もっと逃げ足が速い。なにせ喧嘩は弱いからね」
 「そりゃそうだ。里中はピッチャーだが俊足の外野手でもあったな。チンピラや不良はもちろんだが、気をつけなきゃいけないのは左翼学生だ。なにせ東大の入試試験が中止になるほどの騒ぎだからな。連中は政治にもベトナムにも興味なく野球をやっている俺達も気に入らないんだ。厄介なのは元々、真面目な学生が悪いことをしている自覚なく、破壊行動をしていることだ。ゲバ棒とか火炎ビンってレベルじゃなくて銃砲店が襲われたりしているんだぜ」
 それを聞いて馬場が矢吹に訊いた。
 「矢吹さんよぉ。全学連にとって俺達は敵だとは決められないんじゃないか?俺達は、まだ高校生だ。大学生にとっちゃ俺らみたいな田舎の高校生にマルクスやらエンゲルスに被れさせて味方に引き入れようとするんじゃないか?」
 音楽や芸術に興味のある馬場だけあって、学生運動に対する認識も、そこそこある。この甲子園大会の期間中、アメリカではウッドストックという大規模なコンサートが行われ、それがアメリカ国家に対する若者たちの反抗だということも馬場は知っていたのだ。
 「さすがに馬場君だ。君だけは連中の同志としてオルグされそうだな」
 「そういう矢吹さん。あんたも野球は高校卒業までって、つもりでやってんじゃないか?」
 「どういう意味だ?」
 「なんとなく判るんだよ。対戦しててもピンと来る。江口君と田山は同類さ。プロ野球入り以外に何も考えてない。里中は、まぁ…できればプロ野球に進みたいと思っている。岩城は、どうでもいい。目の前にあることに一直線に突き進むのが、あの馬鹿のいいところであり、悪いところよ。だが矢吹と俺は同類なんだ。例えドラフトで一位指名されても入団拒否する。野球だけが自分のやりたいことじゃないと思ってんだ」
 馬場の鋭い指摘に、度胸の据わった矢吹も少したじろいだ。
 「さすがだぜ。強い訳だな由良明訓。こんなに冷静に野球やってる奴がいるんだ。だが馬場君よぉ。俺や君が、どういう思想であろうとベトナム戦争や日米安保にも反対せず。警察隊に守られて野球なんぞやっている高校球児なんてのは警察を敵に回して戦っている連中から見れば敵なんだよ」
 「判ったよ。矢吹さん。まぁ俺達、田舎者に比べりゃ青雲大付属は名古屋にも近くて都会的な学校だもんな。ある意味、全学連が一番怖いのも判る。正義のためってのが一番怖い。野球部全員、外出する時には、これ見よがしに共同幻想論でも持って歩くか?」
 「ま…それも面白いか…。しかし強い訳だぜ。由良明訓さんは!馬場君みたいな曲者までいるんだからな。野球一筋の奴の方が扱いやすいぜ」
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

河村監督●東京ガイヤンツ九連覇を成し遂げる大監督。当初、痩身の里中を疎んじていたが、徐々に、その闘志と技術を認めていく。選手とは、あまり話をせずに腹心の報告によって対応する。管理野球の申し子。

長尾●ガイヤンツの二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍投手コーチと人事異動の多い河村の腹心。無愛想で口うるさい人物のため選手には嫌われている。江口敏を死に至らしめた一因は自分にあると自責しており、里中に期待をかける。

黒岩●ガイヤンツ二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍守備走塁コーチ。もともとガイヤンツOBだが一時期は広島の海洋モータースの監督を務めた。長尾とは正反対の親分肌の人物で選手から好かれているが、采配には疑問が残る。投手として入団させた人材を野手に転向させたがる傾向がある。

藤井●ガイヤンツ一軍投手コーチ、二軍監督。現役時代はガンジーと呼ばれる痩身のエース。そのため似たタイプの里中に目を掛けている。褒め殺しで投手を乗せる性格は選手に人望があるが、それ故、河村や長岡に疎まれてガイヤンツを退団する。

中川●ガイヤンツ二軍投手コーチ、現役選手よりも若いため若手選手の兄貴分のような存在。河村からも信頼を受けており、人事異動の多い組織の中で定位置をキープしている。

牧場●現役時代は中京ドアーズの内野手。英語が堪能でメジャーリーグの文献を研究しているため河村の声でガイヤンツのヘッドコーチに就任。一時期は守備走塁コーチに降格したが、その堅実な作戦は常勝軍団の頭脳と判断され、再びヘッドコーチに戻る。

長岡●六大学野球から鳴り物入りでガイヤンツ入りしたスーパースター。河村の勇退後の監督に内定しており、現役晩年は衰えを見せながらも最後の最後まで燃える男の真骨頂を見せる。

司馬●元甲子園優勝投手だがガイヤンツ入団と同時に打者へ転向。当初は伸び悩んだが、荒井打撃コーチの指導により一本足打法を開眼させ世界的なホームラン打者になる。長岡より五歳年下ということもあり、九連覇末期に、その打撃技術は円熟に達する。

堀本●紳士的なガイヤンツの選手の中で、あえて悪太郎という不良キャラクターを演じるエース。プライドと強気のピッチングが魅力。

高岡一三●堀本が右投手のエースなら、こちらは左のエース。性格も、どちらかというと陰気な真面目人間。堀本とは不仲なふりをしているが裏では大の仲良し。気が弱いのが弱点。

林●ガイヤンツ黄金時代のキャッチャー。陰険でケチ、投手はもちろん選手からは嫌われているが河村には絶対的な信頼されている。巧みなインサイドワークとポーズとしての弱気で相手を騙す。グラウンドの司令塔。

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