第82話 二度目の夏編●「大声援」
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面白くないのは他の二十八校である。一際、大きな声援を送られる由良明訓と青雲大付属に嫉妬の視線が注がれる。開会式の選手入場前でも、この二校には兵庫県警が警備に当たった。人気や注目を集めれば同様にアンチも増えていく。
「明訓なんか負けちまえ!」「江口!打たれろ!」「里中!カッコつけるんじゃねぇ」等の口汚い野次も目立ってきた。中には関西らしく「田山!腹減ったろ!たこ焼き食うか?」等、ユーモラスな野次も混じっていたが、矢吹と岩城への野次は下品極まりないモノが多く「お前ら三振しに甲子園まで来たんか?下のバットは何割や?」「大阪の女子高生を妊娠さすなよ!三振王」等、プロ野球顔負けの野次も飛び交った。
そんなアンチの野次をも圧倒するのが、両校に対する大声援である。女の子たちの黄色い声援こそ、一年前には里中繁雄にだけ集中していたが、アンコ型の田山、巨漢の豪傑岩城、里中とは対照的に痩身だが不細工な馬場にも人気が高まっていた。予選で投げているため一年生の浜も女性人気を集めていた。
もちろん青雲大付属も江口敏を筆頭に矢吹。セカンド黒沢、ショート滝の二遊間を固める一年生コンビにも声援が集まった。昨年の夏、そして選抜と二大会続けて由良明訓に敗れている青雲への判官びいきからか、青雲勢への声援が上回るような現象も起きていた。文部大臣による始球式になっても、その声援は収まることはなかった。
甲子園球場の係員も球場周辺のパニックを避けるため、由良明訓、青雲大付属の二校の選手は第二試合終了まで球場内に待機させられた。奇しくも球場の食堂は二校の待機場所となり、ナインは久しぶりに顔を合わせたのである。江口は田山と矢吹は岩城と談笑している。土井監督は織田監督に深々と礼をすると織田も土井の手を握りガッチリと握手をした。織田は皮肉気味に
「まぁ今大会も王者由良明訓高校の胸を借りれるように努力するよ」
「勝負ですから判らんですよ。弱いチームが強いチームに勝ってしまうことがあるのが野球ですから」
そんな会話が交わされた。野球部員達には矢吹がチームの分け隔てなく様々なことを注意喚起している。
「ここまで騒がれると俺達は、もう普通の高校生じゃないんだ。明訓の奴等にも言っておくが夜の外出は控えろ!どうしも外出の必要がある時は五、六人で固まって歩けよ。岩城なんか絡まれて喧嘩とかしそうだから、あの馬鹿には三人ぐらい一年生を付けておけよ!くれぐれも、これだけ人気が出ると、それを気に食わない奴が増えてんだ」
「うるせぇ!矢吹!俺はなぁ。田山と違って逃げ足も速いんだ。立場は十分に理解してるぜ!俺のせいで出場停止じゃ五大会連続制覇が水の泡だぜ」
「まぁ喧嘩を売られるとしたら俺か岩城ぐらいだろうな。江口はもちろんだが、里中や浜もファンレターは絶対に自分で開封するなよ。なぁ里中よ。封筒に仕込まれたカミソリで指先を痛めたしりたら自慢のシンカーが台無しだぜ」
矢吹に、こう言われて里中は苦笑した。
「まさか矢吹君に、そんな心配されているとは思わなかったよ。見た目によらず、けっこう親切な男なんだな。ご心配なく、一年生には悪いが封筒の開封は彼らの役目さ。それに岩城も、けっこう足は速いが、俺は、もっと逃げ足が速い。なにせ喧嘩は弱いからね」
「そりゃそうだ。里中はピッチャーだが俊足の外野手でもあったな。チンピラや不良はもちろんだが、気をつけなきゃいけないのは左翼学生だ。なにせ東大の入試試験が中止になるほどの騒ぎだからな。連中は政治にもベトナムにも興味なく野球をやっている俺達も気に入らないんだ。厄介なのは元々、真面目な学生が悪いことをしている自覚なく、破壊行動をしていることだ。ゲバ棒とか火炎ビンってレベルじゃなくて銃砲店が襲われたりしているんだぜ」
それを聞いて馬場が矢吹に訊いた。
「矢吹さんよぉ。全学連にとって俺達は敵だとは決められないんじゃないか?俺達は、まだ高校生だ。大学生にとっちゃ俺らみたいな田舎の高校生にマルクスやらエンゲルスに被れさせて味方に引き入れようとするんじゃないか?」
音楽や芸術に興味のある馬場だけあって、学生運動に対する認識も、そこそこある。この甲子園大会の期間中、アメリカではウッドストックという大規模なコンサートが行われ、それがアメリカ国家に対する若者たちの反抗だということも馬場は知っていたのだ。
「さすがに馬場君だ。君だけは連中の同志としてオルグされそうだな」
「そういう矢吹さん。あんたも野球は高校卒業までって、つもりでやってんじゃないか?」
「どういう意味だ?」
「なんとなく判るんだよ。対戦しててもピンと来る。江口君と田山は同類さ。プロ野球入り以外に何も考えてない。里中は、まぁ…できればプロ野球に進みたいと思っている。岩城は、どうでもいい。目の前にあることに一直線に突き進むのが、あの馬鹿のいいところであり、悪いところよ。だが矢吹と俺は同類なんだ。例えドラフトで一位指名されても入団拒否する。野球だけが自分のやりたいことじゃないと思ってんだ」
馬場の鋭い指摘に、度胸の据わった矢吹も少したじろいだ。
「さすがだぜ。強い訳だな由良明訓。こんなに冷静に野球やってる奴がいるんだ。だが馬場君よぉ。俺や君が、どういう思想であろうとベトナム戦争や日米安保にも反対せず。警察隊に守られて野球なんぞやっている高校球児なんてのは警察を敵に回して戦っている連中から見れば敵なんだよ」
「判ったよ。矢吹さん。まぁ俺達、田舎者に比べりゃ青雲大付属は名古屋にも近くて都会的な学校だもんな。ある意味、全学連が一番怖いのも判る。正義のためってのが一番怖い。野球部全員、外出する時には、これ見よがしに共同幻想論でも持って歩くか?」
「ま…それも面白いか…。しかし強い訳だぜ。由良明訓さんは!馬場君みたいな曲者までいるんだからな。野球一筋の奴の方が扱いやすいぜ」