第66話 選抜大会編●「翻弄」
文字数 1,828文字
由良明訓は一番打者、核弾頭の岩城だ。江口の投球練習に合わせたかのように軽い素振りを二回ほどしてバッターボックスに入った。常に全力フルスイングの岩城にしては珍しい。顔は投手の江口を見据えながらも岩城は捕手の矢吹に声をかけた。
「またお前らに会えて嬉しいぜ。どうだい織田ちゃんの指導は?」
「織田ちゃん?仮にもお前にとって前監督だろ。せめて”さん”付けで呼ぶべきじゃねぇか」
「お前にしちゃ優等生なこと言ってんじゃねぇか?名門校に染まったか?」
「好きに想像しな。ほら剛速球が来るぜ」
挑発じみた矢吹の言葉とは正反対に江口の第一球は大きく曲がるスローカーブだった。右打者からすれば外角外れのボール球に見えるがホームベース上でストライクゾーンを掠めて内角寄りに落ちてくる。これまた岩城にしては珍しく冷静に見逃した。
「俺に対してスローカーブなんかでいいのかよ!次はガツンとバックスクリーンに行くぜ」
「お前、変化球苦手だろ。俺を挑発してストレート投げさせると思ったか?」
「抜かせ…」
江口の第二球もスローボールだ。一球目のように曲がらない。外角寄りのボールがスーッと落ちていく。「貰った!」岩城は叫ぶと大きくバットを振った…しかし、それは振ったように見せかけただけだった。打ち下ろした直後、岩城は器用にバットを止めバントの体勢に切り替えた。
それまで笑顔を浮かべて投げていた江口の表情が強張った。江口だけではない。キャッチャーの矢吹。ベンチの織田と天野ら青雲陣営はもちろん。ネクストバッターサークルの馬場。ベンチの土井、田山、里中…。明訓陣営も度肝を抜かれた。岩城のバントなんぞ練習でも見たことはない。田山と馬場に至っては鷹陸中学時代から岩城のバントなど見たこともない。監督に何度もバント練習を命じられたが、その都度「俺にバントさせるならレギュラーから外せ」と食って掛かっていた岩城である。
江口のチャンジアップを岩城は不器用ながらもバットで捉えた。お世辞に巧いバントとは言えないがボールはコロコロと三塁側に転がった。長打警戒で内外野手を後ろに守らせていた青雲のディフェンスは完全に裏をかかれた格好になった。投手守備も巧い江口だがボールへのダッシュも遅れた。慌てたキャッチャー矢吹がボールに追いついた。矢吹の目には巨体に似合わず俊足の岩城がダイナミックに走っていくのが見えた。
イチかバチか一塁に送球しようとして矢吹はモーションを止めた。その瞬間にファーストの青木が岩城に吹っ飛ばされ医務室に運ばれていく姿を想像したのだ。岩城はラフプレイで、わざと相手選手に怪我をさせるような男ではない。ただ勝負となると周りが見えなくなる男なのだ。今でも鮮明に覚えている。少年柔道の全国大会。小学生離れした怪力にも面食らったが一切、余計なことを考えずに自分に向かってくる岩城のファイトに矢吹は驚かされた。他の選手とは迫力が違っていたのだ。
一塁ランナーに岩城が出た。バッターボックスには馬場が入る。江口はベンチの織田を不安そうに見た。江口にとって岩城も田山も怖いバッターだが、嫌なバッターは馬場だった。「誰にも打たせない!」と全力投球をしてきた江口の剛速球を初めてヒットにしたバッターが馬場だったのだ。田山や岩城、そして里中は自分と同じタイプなのだ。つまりは、この高校野球を全身全霊をかけてやっている。
しかし、この馬場は少し違う。野球をやっている男ではなく、野球もやっている男なのだ。部室でギターを弾き。休みの日には油絵を描き、野球部の練習の前は音楽室でピアノを弾く。里中のように男前ではないが、不思議と魅力的な顔立ちをしている。底知れない男なのだ。
「一流野球選手の俺ならバントなんて、こんなもんだ。青雲大付属の諸君は、この俺を見習って次の回からはバントしなさい。織田ちゃん。あんたの作戦。そっくりそのままお返ししますぜぇ!」
一塁ベースに仁王立ちになった岩城が大声で青雲ナインを挑発した。見兼ねた塁審が岩城に注意したが岩城はヘルメットを脱ぎ素直に謝った。