第191話 栄光の片隅で●「面会」
文字数 3,027文字
多摩も東京にしては田舎臭い土地だが、葛飾区小菅も都心部分を通り越して田舎臭い土地である。常磐線などと言う電車に乗るのも初めてだったが江口は「どうせ暇だし…」と何度も独り言を言っていた。二軍戦で受けたデッドボールは、ちょうど踏み込んでボールを打ちにいった江口の右手の小指と薬指を骨折させた。二週間はランニングさえ出来ない。一ヶ月以上の欠場。及び本格的な練習にも参加できない。
綾瀬駅から地図を見ながらとぼとぼと歩いた。本来ならタクシーでも乗るべき距離だったが「どうせ暇だし…」と呟きながら歩いていたのである。昨年までは刑務所であった東京拘置所は、その名前だけ拘置所と呼び名が変わっただけで外観はやはり刑務所そのものであった。高い塀の上には有刺鉄線で更に上まで塀を延長させ、所々に監視所があり、警備員が立っている。
ややこしい手続きを何回かさせられ、江口は格子とアクリル板を挟んで矢吹と再会した。一年三ヶ月ぶりの再会である。深間山荘事件の逮捕時には無精髭と長髪になっていた矢吹だったが、髭はきれいに剃られ、髪の毛の坊主が少し伸びたような短髪に変わっていた。高校時代に比べると首や胸板がずいぶんと細くなっている。連合正義軍時代の粗食や拘置所での食事で痩せたのだろう。その代わりカミソリのような切れ味を感じさせる人物になっていた。
開口一番、矢吹は「一体、何をもたもたしてやがるんだ!こんな身でも野球中継ぐらいは観れるんだ。ガイヤンツの投手陣はボロボロじゃねぇか!とっとと一軍上がって堀本や高岡を助けてやれ!」ときつい口調で言い放った。
「そうは…言ってもプロは厳しいよ。もうピッチャーは諦めてバッターに転向しようと思ったんだけど…その一戦目で、この様だよ」
江口はギブスで固められた右手を矢吹に見せた。
「そんなもん一月もありゃ治るだろ!それに右手を骨折したって、お前の黄金の左腕は無傷なんだ。だいたいスピードだってコントロールだって、新山なんて韓国人より、お前の方が断然上のはずだ!それを、あんなのに先越されやがって少しは悔しいと思え!」
矢吹の新山に対する韓国人侮辱の言葉を聞いて看守が注意した。「おい!面会は中段させるぞ」矢吹は素直に「言い過ぎました」と謝った。
「でも僕はピッチャーとして大西さんを怪我させてしまった。そして僕のバッターとして怪我してしまった。もう野球をやるのが怖いんだよ」
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ。ボール、バッド、スパイク。いざとなりゃ人を殺せる凶器を使ってやる競技が野球じゃないか!ガキの頃から親父さんの英才教育を受けた江口なら、そんなことは判っているはずだ。確かに、お前は高校時代からバッターの近くに投げるのを嫌った。一戦勝負の高校野球だから通用したが、トーナメント戦のプロじゃ通用しねぇよ。事実、高校時代だって由良明訓の連中には見破られたじゃないか?最後の決勝だけは、まぐれで勝てたが、俺はあの決勝戦だって実力で勝ったと思ってない。たまたま勝てただけだ。だけど、もしお前がバッターを殺す覚悟で内角も攻められたら、天下無敵にピッチャーだ。ただ、それだけがお前のやるべき課題じゃないか?」
「それは…分っているんだけど…どうしても投げられないんだよ。一軍の河村監督はもちろん、二軍の監督も僕のことを怒っている。怒らしちゃいけないって思えば思うほど、投げられなくなっちゃうんだ」
「全く、しょうがねぇなぁ」矢吹は呆れたように言った。
「それより矢吹君は、なんであんな大事件に関わってしまったんだい?」
「事件?まぁ大事件なんだろうが、結果的に事件になってしまったってことだ。俺は、お前と会って高校野球で戦った。だが、俺は、その先で野球をやる実力はない。だから次の戦いを探して東京の大学に行った。そうしたら世界のために戦っている連中と出合った。戦い続けているうちに負けた。それだけの話さ。俺自身は仲間をリンチしたり、一般の人を人質に取るのは反対だったが、チームである以上は仕方ない。監督にバントしろ…と言われたらバントするし、敬遠しろ…と言われたら敬遠する。野球と同じだよ」
「強いねぇ。矢吹君は…。僕はダメだ。自分でも分るんだ。僕はもう気が狂っている。夜中にガイヤンツの寮から逃げたくなる。眠ろうとすると僕の投げたボールでバッターが血を流して倒れる夢を見て、はっと目が覚める。そうすると眠れなくなって何かを食べてしまう。二軍の他の選手が僕のことを見て無駄飯食い…って言っているのが聞こえるような気がする。それで朝になるとぼんやりした頭のままランニングする。僕には皆の声が聞こえるんだ。きっと本当に僕に向かって言っている訳ではないと思う。でも心の中の声が聞こえてしまうんだ。ドラフト一位が、こんなもんか?背番号19番なんて新人が貰う番号じゃない…なんていうのがね」
独白しながら江口は涙をこぼしている。まるでアベコベだ。本当ならば拘留中の矢吹を元気付けるために面会するのが江口の役目だ。
「何!泣いてやがる!泣くなら俺の方だろうが!軽く計算しても俺は少なくとも十年は刑務所入りだ。出てきたところで三十歳だぞ!金だって無い。お前は、こうして娑婆にいるじゃねぇか?この面会が終わったら多摩川のグラウンドに行ける自由があるじゃねぇか!一ヶ月もすりゃ軽くピッチングも出来る。別に相手バッターを殺せ!って言ってる訳じゃない。ストライクゾーンの全てを使ってバッターを撹乱すりゃいいだけのこった!お前には、そんな努力をする自由が与えられてるんだ。俺には、もう奪われちまった自由がな!」
江口は俯いて泣いている。矢吹は怒りで全身がぶるぶると震えている。
「俺が、いつか刑期を終えて娑婆に戻った時。俺は自分の意志で連合正義軍に入り、深間山荘で警官隊と銃撃戦をやったことを誇りに思うだろう。負けたのは結果だ。俺は俺の信念に基づいて戦った。それに関しちゃ何も恥じることはない。だが、お前みたいなピッチャーと組んで四度も甲子園で戦ったのは人生の汚点だ。お前が、そのまま引退したら、岐阜青雲大学付属高校で江口敏投手と野球やってました…なんて恥ずかしくて誰もにも言えない!もし、お前が立ち上がって東京ガイヤンツのピッチャーとしてマウンドに上がったら、例え相手チームに打たれても、俺は、このピッチャーと高校時代に野球やってたんだぜ!と胸を張って言えるだろう。泣くために面会に来てるなら、とっとと二軍の寮に帰りやがれ!そんなことのために俺に会いに来るんじゃねぇ!」
看守は、いざと言う時のために矢吹の背中に回った。だが、案外、矢吹が冷静なのを見て取ると、また後ろの椅子に腰掛けた。江口は泣き続けていた。
「分った…。分ったよ。矢吹君…」と言いながら、東京拘置所を後にした。