第191話 栄光の片隅で●「面会」

文字数 3,027文字

 地図で見ると狭い東京都だが、多摩にある東京ガイヤンツ二軍寮から下町、葛飾区にある東京拘置所への道のりは江口敏の想像よりも遠かった。目的は拘置所に拘留中の矢吹太への面会が許されたからである。警察は江口と連合正義軍との水面下での繋がりを疑問視したが、江口が東京ガイヤンツの選手であること。岐阜青雲大学付属高校卒業以来、矢吹との接点が全くないこと。マルクス、エンゲルス、また吉本隆明、埴谷雄高らの名前を辛うじて知っている程度の共産主義への知識であること等を加味して面会を許されたのである。
 多摩も東京にしては田舎臭い土地だが、葛飾区小菅も都心部分を通り越して田舎臭い土地である。常磐線などと言う電車に乗るのも初めてだったが江口は「どうせ暇だし…」と何度も独り言を言っていた。二軍戦で受けたデッドボールは、ちょうど踏み込んでボールを打ちにいった江口の右手の小指と薬指を骨折させた。二週間はランニングさえ出来ない。一ヶ月以上の欠場。及び本格的な練習にも参加できない。
 綾瀬駅から地図を見ながらとぼとぼと歩いた。本来ならタクシーでも乗るべき距離だったが「どうせ暇だし…」と呟きながら歩いていたのである。昨年までは刑務所であった東京拘置所は、その名前だけ拘置所と呼び名が変わっただけで外観はやはり刑務所そのものであった。高い塀の上には有刺鉄線で更に上まで塀を延長させ、所々に監視所があり、警備員が立っている。
 ややこしい手続きを何回かさせられ、江口は格子とアクリル板を挟んで矢吹と再会した。一年三ヶ月ぶりの再会である。深間山荘事件の逮捕時には無精髭と長髪になっていた矢吹だったが、髭はきれいに剃られ、髪の毛の坊主が少し伸びたような短髪に変わっていた。高校時代に比べると首や胸板がずいぶんと細くなっている。連合正義軍時代の粗食や拘置所での食事で痩せたのだろう。その代わりカミソリのような切れ味を感じさせる人物になっていた。
 開口一番、矢吹は「一体、何をもたもたしてやがるんだ!こんな身でも野球中継ぐらいは観れるんだ。ガイヤンツの投手陣はボロボロじゃねぇか!とっとと一軍上がって堀本や高岡を助けてやれ!」ときつい口調で言い放った。
 「そうは…言ってもプロは厳しいよ。もうピッチャーは諦めてバッターに転向しようと思ったんだけど…その一戦目で、この様だよ」
 江口はギブスで固められた右手を矢吹に見せた。
 「そんなもん一月もありゃ治るだろ!それに右手を骨折したって、お前の黄金の左腕は無傷なんだ。だいたいスピードだってコントロールだって、新山なんて韓国人より、お前の方が断然上のはずだ!それを、あんなのに先越されやがって少しは悔しいと思え!」
 矢吹の新山に対する韓国人侮辱の言葉を聞いて看守が注意した。「おい!面会は中段させるぞ」矢吹は素直に「言い過ぎました」と謝った。
 「でも僕はピッチャーとして大西さんを怪我させてしまった。そして僕のバッターとして怪我してしまった。もう野球をやるのが怖いんだよ」
 「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ。ボール、バッド、スパイク。いざとなりゃ人を殺せる凶器を使ってやる競技が野球じゃないか!ガキの頃から親父さんの英才教育を受けた江口なら、そんなことは判っているはずだ。確かに、お前は高校時代からバッターの近くに投げるのを嫌った。一戦勝負の高校野球だから通用したが、トーナメント戦のプロじゃ通用しねぇよ。事実、高校時代だって由良明訓の連中には見破られたじゃないか?最後の決勝だけは、まぐれで勝てたが、俺はあの決勝戦だって実力で勝ったと思ってない。たまたま勝てただけだ。だけど、もしお前がバッターを殺す覚悟で内角も攻められたら、天下無敵にピッチャーだ。ただ、それだけがお前のやるべき課題じゃないか?」
 「それは…分っているんだけど…どうしても投げられないんだよ。一軍の河村監督はもちろん、二軍の監督も僕のことを怒っている。怒らしちゃいけないって思えば思うほど、投げられなくなっちゃうんだ」
 「全く、しょうがねぇなぁ」矢吹は呆れたように言った。
 「それより矢吹君は、なんであんな大事件に関わってしまったんだい?」
 「事件?まぁ大事件なんだろうが、結果的に事件になってしまったってことだ。俺は、お前と会って高校野球で戦った。だが、俺は、その先で野球をやる実力はない。だから次の戦いを探して東京の大学に行った。そうしたら世界のために戦っている連中と出合った。戦い続けているうちに負けた。それだけの話さ。俺自身は仲間をリンチしたり、一般の人を人質に取るのは反対だったが、チームである以上は仕方ない。監督にバントしろ…と言われたらバントするし、敬遠しろ…と言われたら敬遠する。野球と同じだよ」
 「強いねぇ。矢吹君は…。僕はダメだ。自分でも分るんだ。僕はもう気が狂っている。夜中にガイヤンツの寮から逃げたくなる。眠ろうとすると僕の投げたボールでバッターが血を流して倒れる夢を見て、はっと目が覚める。そうすると眠れなくなって何かを食べてしまう。二軍の他の選手が僕のことを見て無駄飯食い…って言っているのが聞こえるような気がする。それで朝になるとぼんやりした頭のままランニングする。僕には皆の声が聞こえるんだ。きっと本当に僕に向かって言っている訳ではないと思う。でも心の中の声が聞こえてしまうんだ。ドラフト一位が、こんなもんか?背番号19番なんて新人が貰う番号じゃない…なんていうのがね」
 独白しながら江口は涙をこぼしている。まるでアベコベだ。本当ならば拘留中の矢吹を元気付けるために面会するのが江口の役目だ。
 「何!泣いてやがる!泣くなら俺の方だろうが!軽く計算しても俺は少なくとも十年は刑務所入りだ。出てきたところで三十歳だぞ!金だって無い。お前は、こうして娑婆にいるじゃねぇか?この面会が終わったら多摩川のグラウンドに行ける自由があるじゃねぇか!一ヶ月もすりゃ軽くピッチングも出来る。別に相手バッターを殺せ!って言ってる訳じゃない。ストライクゾーンの全てを使ってバッターを撹乱すりゃいいだけのこった!お前には、そんな努力をする自由が与えられてるんだ。俺には、もう奪われちまった自由がな!」
 江口は俯いて泣いている。矢吹は怒りで全身がぶるぶると震えている。
 「俺が、いつか刑期を終えて娑婆に戻った時。俺は自分の意志で連合正義軍に入り、深間山荘で警官隊と銃撃戦をやったことを誇りに思うだろう。負けたのは結果だ。俺は俺の信念に基づいて戦った。それに関しちゃ何も恥じることはない。だが、お前みたいなピッチャーと組んで四度も甲子園で戦ったのは人生の汚点だ。お前が、そのまま引退したら、岐阜青雲大学付属高校で江口敏投手と野球やってました…なんて恥ずかしくて誰もにも言えない!もし、お前が立ち上がって東京ガイヤンツのピッチャーとしてマウンドに上がったら、例え相手チームに打たれても、俺は、このピッチャーと高校時代に野球やってたんだぜ!と胸を張って言えるだろう。泣くために面会に来てるなら、とっとと二軍の寮に帰りやがれ!そんなことのために俺に会いに来るんじゃねぇ!」
 看守は、いざと言う時のために矢吹の背中に回った。だが、案外、矢吹が冷静なのを見て取ると、また後ろの椅子に腰掛けた。江口は泣き続けていた。
 「分った…。分ったよ。矢吹君…」と言いながら、東京拘置所を後にした。
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

河村監督●東京ガイヤンツ九連覇を成し遂げる大監督。当初、痩身の里中を疎んじていたが、徐々に、その闘志と技術を認めていく。選手とは、あまり話をせずに腹心の報告によって対応する。管理野球の申し子。

長尾●ガイヤンツの二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍投手コーチと人事異動の多い河村の腹心。無愛想で口うるさい人物のため選手には嫌われている。江口敏を死に至らしめた一因は自分にあると自責しており、里中に期待をかける。

黒岩●ガイヤンツ二軍監督、一軍ヘッドコーチ、一軍守備走塁コーチ。もともとガイヤンツOBだが一時期は広島の海洋モータースの監督を務めた。長尾とは正反対の親分肌の人物で選手から好かれているが、采配には疑問が残る。投手として入団させた人材を野手に転向させたがる傾向がある。

藤井●ガイヤンツ一軍投手コーチ、二軍監督。現役時代はガンジーと呼ばれる痩身のエース。そのため似たタイプの里中に目を掛けている。褒め殺しで投手を乗せる性格は選手に人望があるが、それ故、河村や長岡に疎まれてガイヤンツを退団する。

中川●ガイヤンツ二軍投手コーチ、現役選手よりも若いため若手選手の兄貴分のような存在。河村からも信頼を受けており、人事異動の多い組織の中で定位置をキープしている。

牧場●現役時代は中京ドアーズの内野手。英語が堪能でメジャーリーグの文献を研究しているため河村の声でガイヤンツのヘッドコーチに就任。一時期は守備走塁コーチに降格したが、その堅実な作戦は常勝軍団の頭脳と判断され、再びヘッドコーチに戻る。

長岡●六大学野球から鳴り物入りでガイヤンツ入りしたスーパースター。河村の勇退後の監督に内定しており、現役晩年は衰えを見せながらも最後の最後まで燃える男の真骨頂を見せる。

司馬●元甲子園優勝投手だがガイヤンツ入団と同時に打者へ転向。当初は伸び悩んだが、荒井打撃コーチの指導により一本足打法を開眼させ世界的なホームラン打者になる。長岡より五歳年下ということもあり、九連覇末期に、その打撃技術は円熟に達する。

堀本●紳士的なガイヤンツの選手の中で、あえて悪太郎という不良キャラクターを演じるエース。プライドと強気のピッチングが魅力。

高岡一三●堀本が右投手のエースなら、こちらは左のエース。性格も、どちらかというと陰気な真面目人間。堀本とは不仲なふりをしているが裏では大の仲良し。気が弱いのが弱点。

林●ガイヤンツ黄金時代のキャッチャー。陰険でケチ、投手はもちろん選手からは嫌われているが河村には絶対的な信頼されている。巧みなインサイドワークとポーズとしての弱気で相手を騙す。グラウンドの司令塔。

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