第17話 新教授

文字数 4,166文字

 雪が解けるにはまだ数ヶ月かかるが、暦は関係なく過ぎていった。結局、三ヶ月の冬休みは、ヘッジスに睡眠不足を残して終わった。しかし、彼自身にも分からない事だが、言語を理解したことが彼の中に例えようのない大きな自信を生み始めていた。
 彼は日課となっていた寝坊を早々と切り上げるとセーターを着込んだ。外はまだ雪が深く、自転車は使えない。彼は寝癖の残った頭のままで玄関を開けた。空に太陽はなく、小さな雪片が舞い落ちて来る。
「エンヤさん、おはようございます」
 ヘッジスは、雪掻きに汗を流すエンヤ婆さんに元気な声をかけた。今までのヘッジスであったら、声をかけなかっただろう。
「お…おはよう…ヘッジス。今日からまた学校かい?」
「ええ、眠くて仕方ないです。じゃあ行ってきます」
「ああ、気をつけて」
 エンヤ婆さんは、マフラーを巻き直しながら坂道を下りていくヘッジスを見送っている。そして、我に返ると慌てて家の中に駈け込んだ。
「じ…爺さん、大変だよ。ヘッジスが、あ…挨拶をしたよ」
 その声に爺さんはいつものとおり、またお茶を噴き出して咳き込み続けた。

 大学は深い雪に埋まっていたが、キャンパスに続く通路は綺麗に除雪されていた。通路脇の切り立った雪の壁面には、用務員が雪を掻いた多くの跡が残されている。
 学生達は、その気が遠くなる作業を気にする事もなく、久しぶりに校門を通って各々の教室へ歩いていった。
 ヘッジスが校門を通り抜けようとしたとき、隠れていたクラメンが突然に現れた。
「びっくりした?」
「ぜ、ぜ…全然。でもやることが子供だね」
 ヘッジスは動揺を悟られないように落ち着いた口調で言った。
「何言っているのよ。どっちが子供よ…手も握れないくせに」
「て…手ぐらい握れるさ!」
「じゃあ、握ってみなさいよ!」
 クラメンは、少し頬を染めながらヘッジスをからかった。ヘッジスは「簡単な事さ!」と言いながらポケットから手を出すと辺りを見回した。新学期の初日と言うこともあって、周りには多くの学生達が溢れている。彼は、何もなかったように素早く手をポケットに戻した。
「寒い。寒いから今度にしよう…」
 クラメンは、お手上げと言わんばかりに呆れ顔で両手を上げた。
「あなたって本当に馬鹿ヘッジスね!」
「馬鹿ヘッジスって…お、おいクラメン」
 彼に構わず先を行くクラメンをヘッジスは追いかけた。クラメンは鼻を突き上げて歩き、ヘッジスが何を言っても返事をしてくれなかった。スコップを手にした用務員がその様子を見て笑っている。
 ヘッジスは、体中から湯気を立てている用務員に照れ笑いを浮かべた。そして、今歩いてきた通路を振り返り「いつもありがとうございます」と頭を下げた。今度は用務員が抜け残った歯を見せ、照れたような笑いを返した。

 クラメンは、教室でヘッジスの隣に座ったが相変わらず口を聞いてはくれなかった。仕方なくヘッジスも黙って前を向いている。教授が入ってくると、慌てて席に戻る学生達が、あちこちで椅子の軋む音を立てた。
デラ教授は、一人の男と話をしながら教壇に立った。
「諸君、長い休みが終わった感想はどうかな?」
 デラの中途半端な嫌味に誰も応える者はいない。彼は、気まずい雰囲気を振り払おうと咳をして話を本題に移した。
「諸君は、今学期より新設の考古学を学ぶ人達です。まあ、私の講義はなくなりましたが、何かあればいつでも相談に来なさい。それでは、今日から考古学の講義を受け持って頂く教授を紹介します」
 デラは教壇を一歩横に退き、男に向かって教壇に進むように促した。紹介された男が教壇にのぼると、彼はデラよりも頭一つ背が高かった。
「こちらが考古学を教えていただく、リスト教授です」
 リストは学生達に向かい、軽く顎を引いてデラの紹介に応えた。デラは、得意そうに新しい教授の紹介を始めた。
「諸君は驚くことと思いますが、リスト教授は少し前まで国際考古学委員会の委員長をされていました。今まで数々の発見や発掘調査に携わった考古学の権威です。このような方に考古学を教えて頂ける事は幸せとしか言い様がありません」
 学生達の間にどよめきが起った。席のあちこちで(委員長だってさ!)、(すごいじゃない!)と囁く声が聞こえる。
クラメンが首を傾げて、肘でヘッジスの腕を突いた。
「ヘッジス、あの人…」
「誰?」
「あのリスト教授よ、見たことない?」
 ヘッジスは、首を横に振った。スーツを着込んだ細身の教授には見覚えがなかった。
「僕は、見たことないよ」
「そう…?」
 リストは、デラの挨拶が終わると、自己紹介を始めた。
「権威などと過分なご紹介を頂きましたが、私は至って平凡な人間です。皆さんと違っているのは私の方が少々早く生まれたことぐらいです」
 リストは教室を見廻すと言葉を続けた。
「すべての学問は疑問から始ります。ですので、多くのことに疑問を持ってください。そして自分の力で克服してください。私はそのお手伝いをするためにここに立っているのです。一緒に楽しみましょう。申し遅れましたが、私の名前はグラント・リストと言います」
 ヘッジスは(グラント?)と聞き覚えのある名前を思い出そうとした。彼は、頭の中の顔と名前が一致すると腰を浮かし、そのままの不自然な格好で固まっていた。
「グ...グ...グラント...さん」
 リストは、学生の中にヘッジスを見つけると頬を緩めたが、すぐに表情を元に戻した。ヘッジスは興奮のあまり、クラメンの肩を強く叩いた。
「ク...クラメン、グラントさんだよ」
「グラント?」
「ほら、君を僕の家まで送ってくれたあのグラントさんだ!」

 除雪されていたキャンパスには、もう薄く雪が積もっていた。用務員は、明日の仕事にあぶれることはないだろう。
 ヘッジスは、退屈そうにその雪を靴で踏み固め、地面に文字を書いている。クラメンは手袋をした手を擦り合わせ、足踏みをして寒さに耐えていた。
「ヘッジス君、クラメン!」
 振り向くと、大きな鞄を持ったリストが胸元で小さく手を振っていた。クラメンはリストが近づくのを待って声をかけた。
「教授、一緒に帰ろうと思って待っていました」
「そうですか、では帰りましょう。ヘッジス君、帰ろうか」
 リストは、キャンパスで雪遊びをしているヘッジスに声をかけると、彼の足許に目をやった。リストは足で書かれた文字を見て眉間に皺を寄せ、すぐに驚きの表情を浮かべた。
「ヘ、ヘッジス君、それは何だね」
 ヘッジスは頭を掻きながら答えた。
「落書きです。クラメンが僕を子供だっていつも怒るものですから」
「そ…そうかね。私は、何か新しい言語かと思ったよ」
 リストはそう言ったが表情は堅いままだった。そこに書かれていた文字は間違いなく、あの文字だったからである。委員長時代に解読できなかった文字の羅列、それが今、雪の上に描かれているのだ。
(そんなはずはない。最古の文献の展示会はまだ先のはずだ)
 リストは自分の考えを飲み込むようにして無理に自分を納得させた。
 クラメンがヘッジスに向って舌を出した。
「私への当てつけなのね!」
「まあまあ、クラメン。さあ帰ろう。私が現れると君達はいつも喧嘩だ」
 リストが溜息をついたので、二人はそれを見て笑った。
 白い息を吐きながら、ヘッジスはリストに目を向けた。
「驚きましたよ。グラントさんが教授だなんて…」
「君よりも私が一番驚いているんだよ、私は教授と言う柄じゃないんでね」
 リストは少し照れながら頭を掻いた。
「そんなことはありません、立派過ぎますよ」
「私もそう思います。教授」
「クラメン、教授は学校の中だけで頼むよ、背中が痒くなるのでね」
「いいんですか?、みんな教授と呼ばれるのを喜んでいますが…」
「教授になりたかった人はね。できればあのまま土を触っていたかったよ。私は骨董屋だからね」
「骨董屋ヘッジス、骨董屋リスト教授!」
 クラメンが笑いながら茶化した。リストは、何の事か分からずにクラメンを見返した。
「ヘッジスも骨董屋って呼ばれているんですよ。ヘッジスの場合は半分馬鹿にされていますけどね」
「半分?、僕の場合は全部だよ!」
 ヘッジスがそう言って怒ったように手を振り上げると、クラメンはリストの後ろに隠れた。リストが「こら、二人とも!」と子供を叱るように言うと、ヘッジスとクラメンは互いにしかめっ面の顔を突き出して睨み合った。リストは、また溜息をつかざるを得なかった。
 三人はリストを真中に挟んで歩き始めた。クラメンは、リストが気に入ったと見えて、嬉しそうにしている。
「教授、今度の休みに遊びに行ってもいいですか?、ヘッジスと一緒に」
「ああ、いいよ。休みの日は一人で退屈でね」
「ありがとうございます。じゃあ必ず伺います」
 クラメンは、そう言うと辻道の一本を指差して「教授、私の家はこっちですので、ここで失礼します」と頭を下げた。
「気を付けて帰りなさい。それと、私はグラントだよ」
「やっぱりリスト教授って呼びますね、では教授さよなら」
 クラメンは歩きながら時折振り返り、二人が見えなくなるまで大きく手を振っていた。ヘッジスは目を細めてクラメンを見送っている。リストは歩きながらヘッジスに明るく声をかけた。
「本当に明るくて良い娘だね。ヘッジス君にお似合いだよ」
 ヘッジスは、リストに笑いかけると素直に話した。
「お似合いなんて…。すぐに嫌になると思いますよ」
「ほう、なぜ?」
「教授はご存知ないんです。僕は皆んなから変人ヘッジスって呼ばれてるんですよ」
「骨董屋ヘッジス、変人ヘッジス…。君にはいろんな名前があるんだね」
「ええ、僕らが一緒にいるのを学校中が不思議がっているくらいなんです…」
「でも、できれば少しでも長く彼女と一緒にいたい…だろ?」
 ヘッジスはなぜか「はい」と素直に答えた。雪を乗せた枝に残った木の実を鳥が(ついば)んでいる。リストはヘッジスから目を離してその姿に目をやった。
「鳥はね、居心地の悪い枝には止まらないものだよ。少しくらい風で揺れたって飛び立ちはしないさ」
 目の前の鳥は、風に揺れ始めた枝から音も立てずあっさりと飛び立った。リストは苦笑しながらヘッジスに向き合った。
「少しずつ立派な枝になれば良いことさ」
 ヘッジスは、リストの言葉に首を振った。
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