第 2話 出会い

文字数 4,233文字

 表通りから古びた石造りの門を通ると、両脇に花壇を配した通路が続いている。この先に広場があり、その大きさには誰もが目を見張る。所々に礎石が埋め込まれたその広場は、遺跡と呼ぶのが相応しいほどのキャンパスだった。
 キャンパスは、巨石で造られた二階建ての校舎と、多くの樹々に囲まれている。校舎裏の樹の枝は、風が吹く度に窓に(ささ)やいて学生達の邪魔をする。これは建物の設計者ではなく、無責任な植樹者のせいなのだ。未来の樹木の姿まで思い描けなかったのだから。風はあるが雨の気配はない。

 窓を撫でるオレンジ色の木の葉と小枝の音。この音に気を取られ始めた学生達の心は、既に校舎の外にあった。ある者は家路につき、またある者は町で遊んでいた。
 古い時代の劇場を思わせる教室の天井と壁には、白い漆喰が塗り込まれている。床の木材は磨かれ、鈍く光っている。教壇に向かい沈み込む摺鉢状の傾斜には、弧を描くように机が造り付けられていた。
 教授の声が響いて壁を叩き、受け取る者もなく無機質に跳ね返り続けている。
 デラ教授は袖をまくり上げ、太い首の辺りのボタンを外していた。大きく張り出た腹は、幾つかのボタンを飛ばしそうである。彼のズボンからは、いつもシャツが顔を覗かせていた。
 デラは、広がっている額に汗の粒を浮かべ、独り善がりな講義を続けている。学生達が惹かれるのは、彼がボードを指す度に手首で揺れる緑のブレスレットだけだった。彼の講義は、いつも一人のためのものだった。
 その一人は、眠気に襲われながらもボードを睨み続け(もうすぐ、終わりだ)と目を擦った。
 講義の終了を知らせる合図が鳴った。デラ教授は、本から目を離し、僅かばかりの学生を一瞥した。そして、不器用にポケットからハンカチを取り出すと、なすり付けるように太い首筋を拭いた。
「今日の授業はここまでだが…その前に、お前!」
 デラは、尖った大きな声で叫んだ。そしてハンカチを持った手で、その学生を指差した。俯いていた学生は、それが自分だと気付くと、思わず立ち上がった。転がったペンが、床で乾いた音を立てた。
「私の講義は退屈かね。少しばかり勉強ができるからっていい気になるな!」
 デラは憤懣(ふんまん)やるせない表情で大声を出した。半ば夢の中にいた学生は、驚きに瞬きを繰り返しながら身動きを止めた。
「眠るのなら出てこなくて結構なんだがね」
「……」
「今、私が何を講義していたか覚えているのか?、歴史だよ。私達は、この偉大な過去の上に存在しているのだ。真面目にやらんか、この馬鹿者が!」
 学生は、顔を青白くして頭を垂れている。体は小さく震えているように見えた。
 デラが教室から出て行くと、学生達は先を争うように姿を消していった。ある者は家路につき、ある者は町へ向かった。彼はずっと目を閉じ、背中を丸めたままそこに立っていた。
 遠くに聞こえていた足音が階段の下に吸い込まれていくと、青年はゆっくりと息を吐き出した。身を潜めていた生き物が甲羅から這い出すように、彼は心を緩めていく。
 緊張と恥ずかしさから抜け出そうとしたとき、誰かが彼に声をかけた。
「あなたって、少しのことで落ち込むのね」
 驚いて目を開けると、無遠慮に顔を覗き込む女性がいた。葦毛色の髪は真っすぐに流れ、そのままマフラーの中に隠されていた。ベージュ色のセーターの胸に、数体の人形が幾何学的に編み込まれている。その人形の創り出す柔らかな歪みが彼女の胸を大きく見せていた。
 両手をズポンのポケットに入れて見上げる顔が、悪戯っぽく微笑んでいる。
「帰りましょ。いつまでも、そうしている気なの」
 彼女はそう言うと、ジャンパーを抱えて足早に出口に向かって歩き始めた。そして、扉の前で振り返ると、半端に口を開けた青年に向かい「早く」と言って姿を消した。
 青年は暫くの間、教室の出口を唖然として見ていた。そして、冴えない仕草でペンを拾い上げると、なぜか()かされるように階段を駆け下りていった。彼の起こした風のせいで壁に貼られた掲示物が乾いた音を立てて激しく暴れた。
 青年が過ぎ去り、落ち着いた紙には「カフル・ヘッジス」と名前が見える。
 その上部には「春期学力最優秀者」と書かれていた。

 外は、もう冷たい風が吹き始めていた。風は樹木を揺らし、落ちている枯葉を小さな旋風(つむじ)にして(もてあそ)んでいる。風も樹々も来るべき季節を教えていた。
 マフラーから(こぼ)れ出た葦毛色の髪は風に遊ばれ、凪ぐ度に元通りのしなやかさを取り戻した。風の中に僅かだが彼女の香りがする。青年は慌てて視線を落とし、意味もなく彼女の茶色のブーツに目をやった。
「あなたが眠るなんて珍しいわね」
「……」
 自転車を押している青年は返事をしなかった。彼は、記憶の中から彼女の顔を探し続けている。
「あなた、怒ってるの?」
 彼女は心配そうに振り返り、青年の顔を見た。
「いや、う…うまく話せないんです」
「話せないって…誰とでもそうなの?」
「いいえ」
「学校で誰かと話はするの?」
「し…しません」
「でも、お母さんとは話をするんでしょ?」
「は…はい」
「そう。じゃあ、慣れれば話ができるわけね」
 青年は答えず、前輪に目を落としたまま不安そうに歩いていた。彼女は、少し苛立ったが努めて明るく振舞った。
「あなた歴史が好きなんでしょう?、私には分かるの。だっていつも休まずに講義に出ているし、成績も抜群だもの」
「……」
「何とか言いなさいよ!」
 青年は、その強い口調にひどく驚いて「え…ええ。好きです、楽しいのです」と、慌てて言葉を搾り出した。
「ねえ、その変な話し方を何とかしたらどう?、普通に話してくれないかなあ」
「す…すみません」
 青年は顔を上げず、困った顔をした。
「それで、どうして今日は眠っていたの?、私、ちゃんと見ていたんだからね」
「眠ってません。確かに眠かったけど、講義は全て覚えているんです」
 青年は気に障ったのか少し顔を上げた。そして目を輝かせて講義の内容を話し始めた。
「あら、ちゃんと話せるじゃない」
 彼女は揶揄(からか)うように言うと、口を空に向けて笑った。青年は足許を見たまま苦笑した。
「昨日、何かしてたの?」
「夜遅くまで遊ん…で…いたから」
「えっ、あなたって無口な秀才かと思ってたけど意外に普通なのね。町にでも行ってたの?」
 青年は、質問をそのままにして「ど…どこかで会ったこと…ありましたか?」と尋ねた。
 彼女は、手を後ろに組んで歩きながら「いいえ、全然」と答えた。その姿に屈託はない。
「では、どうして…僕なんかと話をするのですか?」
「どうしてって、あなた変な聞き方をするのね」
 彼女は「まあいいわ、教えてあげる」と言って、なぜか得意気に話を続けた。
「あなた、いつも誰とも喋らずに講義を聞いているでしょう、自分では知らないと思うけど凄く嬉しそうによ。だからどんな人かと思って話をしてみたくなったの。ただそれだけよ」
 彼は「ああ…、ありがとうございます。よく分かりました」と答えた。
「だから、変な話し方は止めなさいって言っているでしょ。調子が狂っちゃうから普通に話してよ」
「あ…はい。…いや、うん。わかった…よ」
「私は、クラメン。あなたと違って友達のたくさんいるクラメン」
 彼女は冷たくなった指で自分を指差しながら冗談を言った。
「僕は、へ…ヘッジス。僕には友達は一人もいないよ」
 ヘッジスは自嘲するように小さく笑った。
「知ってるわ。あなたは学校で有名人ですもの」
「あ…あだ名のことですね」
「そう。でも、頭の良いことでもすごく有名よ」
 クラメンは振り返り、俯いて目を細めているヘッジスを見た。翳りのある目に落ち着きはなかったが、灰色の瞳は驚くほどに澄み切っている。彼が卑屈そうに背中さえ丸めていなければどこにでもいる普通の学生だった。
 (自信を持てばいいのに)とクラメンは思った。そして足を止め、ヘッジスが追い付くのを待つと彼の丸めた背中を強く叩いた。
「でも、皆の言っていることは間違っていたわ。あなたは普通よ…少し真面目過ぎるだけ。ヘッジス、デラ教授に怒られたくらいで落ち込んでちゃだめよ」
「だ…大丈夫さ、僕は慣れているから…」
「そう、じゃあ良かった。私はこっちの道だから。また明日ね」
 走り出したクラメンは、笑いながらヘッジスに向って大きく手を振った。
「あ…、ああ。さよな…」
 彼が言いかけたとき、クラメンは既に辻を曲がり終えて見えなくなっていた。
(あの人は何だろう?)
 クラメンと別れてからも暫くの間、ヘッジスの頭は混乱していた。
(僕が普通…?)
 彼は、邪魔者扱いされるのには慣れていたが、普通に扱われた経験がなかった。「馬鹿ヘッジス」「負け犬ヘッジス」と呼ばれていたのだから、混乱するのも無理はなかった。
 彼は慣れない会話に酷く疲れていた。それでもいつものように、唯一の友達である(自分)との会話を楽しみ始めた。
(僕が普通だってさ)
(お前が普通のはずないだろう)
(でも、普通だって言ってたよ?)
(お前は、やっぱり馬鹿ヘッジスさ!)
 ヘッジスは歩きながら、何度も同じことを(自分)に聞いた。そして彼は明快な一つの答えを見つけると、背中を丸めたままで小さく微笑んだ。
(そうか、彼女の方が普通じゃないんだ)
 その答えは、少し暖かさをもって彼の頭の中を巡っていた。
 冷たい風が、ヘッジスの髪を巻き上げて身震いさせた。寒さが、彼に昨夜のことを鮮明に思い出させる。それは昨日から頭の中を離れず、彼を興奮させ続けていた。
 ヘッジスは押していた自転車に飛び乗ると、弾くようにペダルを漕いだ。風は石畳の道に敷き詰められた枯葉を舞い上げ、自転車の通り過ぎた跡に(わだち)を残した。
 自転車は、大きく振動する。激しい揺れにベルが鳴り続けていたが、彼は構わずにペダルを蹴り続けた。ヘッジスの髪は、激しく後に流れていた。
 自転車を走らせていくと、山は次第に大きくなってくる。山頂には白い雪が積もり、その鋭角な稜線を際立たせている。雪に反射する真っ白な光が、山を一層大きく感じさせた。(もう春も終わりか)とヘッジスは思った。
 ここにある季節は春と冬だけである。春が訪れると、解き放たれたように様々な草花が咲き乱れる。樹木も一斉に芽吹き、萌える新緑が白から緑へと別世界を作り上げてくれる。
 しかし、花が実を結び終えると、葉はあとを追うように色を変えて散り始める。そして、彼らはまた白い冬に()もるのである。
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