第 1話 発見

文字数 5,181文字

 
 何かが気になった。
 夕陽が近くの山を蜜柑(みかん)色に染めている。彼が動くと、山裾に(あぶ)り出された二つの大きな影絵が動いた。惑い流れる自分の影が気になったのだろうか。
 いつも歩く道だが、今まで気にしたことはなかった。確かによく見ると山裾の一部が、ほんの僅かだが膨らんでいるように見える。
 彼は少し離れて観察したあと、道を外れて近寄っていった。
 蔓が網の目状に取り巻き、その上を蔦の葉と枯葉が覆っている。少し枯葉を取り除いてみると隙間から平らな壁が目に映った。壁は金属のように見える。
(壁?、金属?、こんな山の中に?) 
 彼はひどく驚いた。金属は貴重品であり、そのほとんどは公共施設にだけ使われるものだからである。
 彼は、その形状から倒れた建物が小さな洞窟を作り出しているのだと考えた。洞窟は、少しの角度をもって傾いている。蔦を払い除けるのに時間がかかったが、それでも何とか小さな入り口を作り、体を押し込んだ。腰を屈めなければ立っていられない。
 壁面のコーティングは、痕跡もなく消え果てて無機質な金属の肌を剥き出している。風がないためか、中は意外に暖かい。夕暮れも手伝って、洞窟の奥は漆黒を思わせるほど真っ暗だった。
 耳を澄ますと水の滴る小さな音が聞こえる。突然、耳元でバタバタと羽音がしたので短い声を出して座り込んだ。驚きの声は反響を繰り返しながら洞窟の奥へと消えていった。

 彼は、洞窟から抜け出すと急いで家に向かって走り始めた。辺りに家が現れ始めると走るのを止め、靴音を立てないように注意した。
 家に飛び込み、急いで懐中電灯を探したが、出て来たのは失くしていた母からのプレゼントだけだった。
 彼は、無意識に玄関とキッチンを往復して考えを巡らせ、いつものように自問自答を繰り返した。
(明日にしたらどうだい?)
(いや、何があるのか今すぐ見たいじゃないか)
(それなら、エンヤ婆さんに懐中電灯を借りたらいいじゃないか)
(馬鹿な、僕がまともに話せると思っているのかい?)
(それもそうだ。それじゃあ、やっぱり明日にした方が賢明だね)
(でも…)
(今日はもう遅いし、それに寒いよ)
 ヘッジスはそれから暫くの間、玄関とキッチンを行き来しながら勇気の現れるのを辛抱強く待った。そして「それしかないか…」と呟くと、嫌がる足を引き摺りながらエンヤ婆さんの家に向かった。その距離は僅かだが、山道を歩くより疲れる距離だった。彼の最高の興味のための最悪の選択なので仕方がない。
「こ、今晩は。ヘッ…ヘッジスです」
 彼は額に脂汗を滲ませてドアに向かって声をかけた。逃げ出したい気持ちを抑え、顔は苦痛に歪んでいた。
「おや、ヘッジス…何かご用?」
 首に薄手のマフラーを巻いたエンヤ婆さんは、珍しい客に驚いた。彼女は、近所付合いをしたことのないヘッジスが尋ねてくるなど想像できなかったのだ。
「す、す…すみません。か、懐中電灯を貸して…い…頂けませんか?」
「ええ。いいですよ。でも何に使うの?」
「は…母にもらった、う…で時計が見当たらないもので…」
「それは大変ね、ヘッジス。ちょっと待っててね」
 エンヤ婆さんは、気の毒そうな顔をして家の中に戻っていった。ヘッジスの首や手は壊れた機械のように勝手に動き、体は明らかに傾いていた。彼は、(大丈夫だ…大丈夫だ)と、もう一人の(自分)に何度も勇気付けられている。汗は額から頬を伝い、顎から滴り落ちていた。
 エンヤ婆さんは爺さんに大きな声で「あなた、懐中電灯はどこだったかしら?」と、不似合いな言葉を使ったあと、声を細めて「珍しくも骨董屋ヘッジスが頼み事ですって。ケッ」と舌を打った。
 そのどちらの声も、緊張に固まっているヘッジスの耳に届くはずはなかった。

 真っ暗な山の中で光っているのはヘッジスの懐中電灯だけだった。彼は、山路で懐中電灯を切った。そして路を外れ、山裾を伝いながら彼だけの洞窟に近づいていく。洞窟の前で振り返って見たが、漆黒の闇と虫の声のほかは何もない。
 蔦を広げて作っていた洞窟の入り口は、少し小さくなっている。それは、植物の持つ驚異的な力だったが、ヘッジスにそれに気付く程の余裕はなかった。
 彼は、急いで洞窟に入ると内側から蔦を元通りに直した。そして、十フィーズほど進んでから懐中電灯のスイッチを入れた。彼は後ろを振り返り、光が漏れる心配がないことに満足した。そして、砂利石の潰れる小さな音を立てながら奥に向かって歩き始めた。
 進んでいくと足が僅かに沈み込み、柔らかな羽根の上を歩いているように感じられる。足許に光を当てると、流れ込んだ土に絨毯を想わせる苔が群生しているのが分かった。
 目を凝らして奥を見ると、懐中電灯の反射なのか、何かが浮かんでいる。それが光を放っている苔であることが分かると、彼は好奇心から懐中電灯を消してみた。
 苔は弱いながらも光を放ち、洞窟の床全体を浮き上がらせているようだった。その淡い緑黄色の光は幻想的で美しく、彼を洞窟の奥へと(いざな)っている。
 彼は、闇を彩る冷たい光に身震いした。いや、光のせいではない。少し温度が下がってきているらしい。
 洞窟は、変わらず下へ向って傾斜を続けた。直線的な天井を持った洞窟は決して曲がることはない。彼は、この洞窟をエレベーターシャフトかダストシューターだと推測した。
 どれだけ歩いたのだろう。天井が低く、不自然な格好で歩いているので腰が痛い。
 寒さのせいだろうか。指先に小さな虫に噛まれたような痛みを覚えた。しかし、彼は目の前で動き回る懐中電灯の光の輪を追い続けた。彼の知らない間に洞窟の温度が急激に下がり、体中が凍え始めていた。
 ヘッジスは、大きな身震いをすると注意深く辺りに目をやった。光に映し出された天井には、溶け出した石灰が創り出す奇妙な造形物が幾つも垂れていた。それは、透明な氷に包み込まれ、ヘッジスに向って美しい光を撥ね返している。
 彼は(凍っているのか?)と不思議に思った。そして懐中電灯に向って息を吹きかけて見る。吐いた息は驚くほど白く光を染めたあと、ゆっくりと闇に溶けていった。彼は(寒いはずだ)と首を振った。
 暫くすると空間は広がり、腰を伸ばして立つことができるようになった。曲げていた腰を伸ばすと、小枝を折るような音がして空間に響いた。もう足の下に苔はなくなっている。壁面は所々から染み出した水が氷となって張りついていた。
 歩くと土はサクサクと乾いた音を立てる。それが土を持ち上げた霜柱であるとヘッジスは知っている。彼はマフラーを強く首に結び付けて寒さから逃れようとした。
 やがて、光の輪の先に洞窟を塞ぐ壁が現れた。崩れた壁が道を塞ぎ、周りは散乱した砂利によって氷詰めにされていた。進む道は完全に断たれていた。
 ヘッジスは、溜息をつくと歩いてきた洞窟に光を向けた。
(今から引き返すのか)
 諦めと同時に、今まで忘れていた恐怖がヘッジスを襲った。
 ヘッジスは前を塞ぐ壁と、歩いて来た洞窟を交互に照らし出し、光の輪を遊ばせた。何度か懐中電灯を振ったとき、光の輪が一瞬、黒い影を捉えた。舐めるように光を頭上に移動させてみる。
 今まで見逃していた小さな黒い空間が、そこに浮き上がっていた。彼は、転がっている凍りついた岩や壁の角に足をかけながら慎重に穴に向って這い上がっていった。
 黒い闇を覗かせる空間は、人がやっと通り抜けられるほどの大きさだった。ヘッジスは、恐る恐る頭と右手を入れて暗闇を照らしてみた。暗闇は、意外にも大きな空間に変わった。
 彼は窮屈な隙間に左手を強引に押し入れて、両手で体を上に引き摺り上げる。狭い隙間に身動きできなくなる度に、彼は体を細かく揺すり、少しずつ体を滑り込ませていった。彼は胸のボタンと引き換えに、その空間に体を引き上げることに成功した。下の洞窟で撥ねたボタンの乾いた音が彼の耳に残っている。
 金属製の机、傾いた椅子や壊れた陶器などが散乱していた。歩く度に何かを踏みつけて砕ける音がする。臭いはない。部屋を見回していると気分が悪くなるのを感じたが、彼はそれが部屋の傾きによるものだと見当を付けた。
 部屋の壁にはドアはなかったが、その一面だけが黒色をしていた。確認のため近づこうと足を踏み出したとき、大きな壊れる音と同時にヘッジスは床を踏み抜いていた。
 彼は落ちる寸前に床を手で押さえ、その場に尻餅を付いた。足許には落とし穴のような四角い空間が口を開き、その中に右足が咥え込まれている。怪我はないようだが、異常なほどの床の冷たさが痛みに変わってくる。
 彼の体を食い損ねた空間は、木格子の窓の部分のようだった。(部屋が横倒しになっているんだ)とヘッジスは思った。
 黒い側面の壁を触ると、それは木貼りであり、明らかに床であったと分かる。ドアのない理由に納得した彼は、確信を持って天井に懐中電灯を向けた。そこには揺れることのないドアが垂れ下がり、開かれたままの黒い長方形の空間が横たわっていた。
 ヘッジスは、倒れている椅子の中で使えそうな物を選ぶと、机の上に高く積み上げ、天井に垂れ下がったドアを強く引いてみた。ドアは子供の悲鳴のような音を立てたが、壊れて下に落ちる心配はなさそうである。
 彼はドアを掴み、ノブに足を乗せた。ブランコのように揺れるドアは、体を内側から引掻くような甲高い音を立てる。ヘッジスが、揺れのタイミングを図っている。ノブを蹴り、彼の手が一気に空間の角に取り付く。下で大きな音がした。ヘッジスにそれを気にする余裕はなく、懸命に足で空を蹴り、体を持ち上げようと藻掻いている。諦めて下りる訳にはいかない。下の椅子は崩れ落ち、もうそこにはない。ヘッジスの腕は、小刻みに震えている。彼は呻きながら少しずつ体を持ち上げていった。

 この部屋の寒さは異常である。真冬の夜よりも寒かった。傾いた床の低い部分には厚く氷が張っている。彼は氷の上に立つことにした。この唯一の水平面に立って懐中電灯を消すと不思議なほど不快感は消えていく。彼は、弾む息と腕の震えが納まるのを待った。
 部屋を照らし出すと、頭の上に窓らしき場所はあったが、在るはずの木格子やガラスはなくなっていた。しかし、その代わりに濁った水晶石のような氷層が室内に押し出され、天井に取り付けられた高価な照明器具を思わせた。
 部屋に家具らしきものは何もない。頭上の本来壁面であった隅には作り付けの小さな本棚が貼りついて真下を向いている。片方の扉は永い間、閉められたままである。ガラスを通して本らしき物が見えたが、それはもはや本ではなく朽ち果てて土のようになっていた。もう一つの扉は開かれ、揺れることを忘れている。あるものはこれだけだった。彼はこの部屋を調べるまでもなく落胆した。
 帰ろうと重い足を踏み出したとき、靴底が何かを感じた。しゃがみ込み、足許を見てみると氷を覆う霜の下から何かが頭を出している。彼は、靴を擦り付け、霜を取り払うとマフラーで氷を磨き始めた。
 磨き上げられた氷の中から出て来た物を見て、彼は再び落胆しなければならなかった。それは、窓枠かドアの壊れた小さな金属片に違いなかった。
 彼は大きな白い溜息をついた。気力が失せると寒気は容赦なく襲って来る。限界を悟った彼は、これが最後と心に決め、残った氷の霜を払い除け始めた。
 体力がなくなる寸前、氷の中に何かが浮かび上がった。
(……?)
 氷の中に光を差し込んだヘッジスは驚愕した。彼は後ろへ飛び下がろうとしたが氷に足を滑らせ、その場に腰を打ち付けた。
「ひ…ひ…人?」
 ヘッジスの喉が乾いた声を出していた。彼は動けなかった。腰の痛みのせいもあったが、驚きのあまり体が自由にならなかったのである。恐怖だけがそこにあった。心臓が激しく脈打っている。それでも彼は、恐る恐る氷の中に目を向けた。
 生きたまま干乾びたような姿が浮かび上がっている。その氷漬けの小さな顔には表情はなかった。瞳があった場所は黒い空洞となっている。鳶色の長い髪の毛だけがまだ生きているように氷の中で波打ち、時が止まっていた。
 体中を襲う震えは単に寒さだけではない。彼は、混乱する頭でそれを人形であると結論付け、僅かながら安堵した。
(何だろう?)
 荒い呼吸を残したまま、彼は首を傾げた。その人形のかつては上腕部であった辺りに黒い塊が隠れている。それは氷越しの歪みでよく見えなかったがヘッジスの目を惹きつけて離さなかった。
 彼は、凍えて感覚のない両手に白い息をかけて擦り合わせた。そして残っている力を振り絞り、氷を磨き上げると懐中電灯の光を射し入れた。光の前に漂っていた真っ白な息が消え去ると、塊は歪みなくヘッジスの目に像を結んだ。
 そこには黒い表紙の本が閉じ込められていた。
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