第 3話 骨董屋ヘッジス

文字数 2,214文字

「ヘッジス、お帰り」
 家の前の小川で洗い物をしていた老婆は無理に明るい声を出した。
「エ…エンヤさん。昨日は、ありがとうご…ざいました」
 ヘッジスは、僅かに顔を向けて言葉を返すと逃げるように走り、白壁の家の中に入っていった。
「ケッ、骨董品の収集屋が、ろくに挨拶もできやしねえよ!」
 エンヤ婆さんは、曲がりかけた腰に手を乗せて言葉を吐き捨てた。通りに面した窓から、耳掃除をする爺さんが顔を見せる。爺さんは、窓を開けて「婆さん、奴に聞こえるよ」とエンヤ婆さんを(たしな)めた。
「おや、そうだったねえ。骨董屋でもあんたより耳は達者だったわねえ」
 エンヤ婆さんは、爺さんに不機嫌に言いながら、寒さにあかぎれた手を擦り合わせた。
「ふん、俺は奴みてえな変人じゃねえや」
 爺さんは、自慢の鷲鼻を擦りながら苦い顔をして家の奥へ戻っていった。

 ヘッジスは、近隣で変人と言われている。それは、彼が他人との会話を苦手にしていることも原因の一つだ。人を前にすると緊張のあまりうまく言葉が出てこないのである。そして、もう一つは彼の趣味が災いしている。
 この父親の故郷にヘッジスが初めて来たのは、まだ彼が小さく身長が1フィーズを超えた頃である。彼の祖母はいつも笑顔で迎え入れてくれた。訪れる度に父親と野山を歩き回ったのは、何よりも父親と一緒の時間が好きだったからだ。
 枯れ枝を振り回しながら歩いていると、土の中から頭を出している物が見える。手にすると、それは鮮やかな色をした陶器の破片だった。価値のない物ではあったが、煌めく色合いは、少年の心を惹きつけて放してはくれなかった。この近くの大学を選んだのも、子供の頃の思い出のせいだった。 
 彼は、今も時間を見つけては薄汚れた格好で山を歩き廻っている。周りの人は、挨拶もできず冗談も言えない風変わりな青年を、食卓で「骨董屋ヘッジス」「馬鹿ヘッジス」と言い、玄関先では素知らぬ顔をして「ヘッジスの息子さん」と呼んでいた。
 家の中は、陶器や装飾品が所狭しと並べられており、中にはまだ土を被った物まで置いてある。
 無造作に置かれている物、そのすべてが洗練されていた。陶器は、異文化を感じさせる様式美を備えていたが、価値のあるものは一つとしてない。この程度の物はどこを掘っても見つけることができるからである。

 玄関に入ると口笛を吹き、愛犬を呼んだが出迎えはなかった。彼は、出土品の間を巧みに通り抜けると洗面台に向かった。乾いたタオルを肩にかけ、いつも通りに背中を丸めてキッチンで珈琲を注いだ。そして階段を小走りに駆け上がり、祖父の書斎だった部屋に逃げ込んだ。
 この部屋は今、ヘッジスの部屋となっている。余程、大きな声でも出さない限り、ここまでは老婆の悪態も届くことはない。
 階段を昇る主人を片目で見送った犬は、気怠そうに目を閉じた。

 突然に現れたクラメンのことは頭から消えていた。
 ヘッジスはストーブに火を灯けると、先走る心を抑えてゆっくりと手に息を吹きかけた。そして、珈琲を飲みながら部屋の暖まるのを待った。カップを持って歩き回る彼の目は、無駄に動き回っている間もテーブルから離れることはない。そこには昨日、懸命に氷を砕き、やっとの思いで手に入れた本が、タオルに包まれて置いてあった。
 部屋が暖まると、彼はテーブルの前に座りタオルを解いた。現れた黒表紙の本は薄く軽そうに見える。しかし、手に取るとかなりの水を含んでいるらしく重い。
 ヘッジスは表紙に残っている水滴を慎重にタオルで拭き取った。丈夫な紙で作られているらしく表紙に変化はない。
 彼は好奇心に震える指で、そっと表紙をめくった。ゆっくりと剥がれていく紙には、期待していた以上の綺麗な文字が踊っていた。流れるような肉筆で書かれた文字は、昨日書かれた物と言ってもおかしくない。それは、すべてを確実に書き直すことができるほどの文字だった。
(えっ…)
 彼は、少なからず落胆した。誰も見たことのない古代の文字が現れることを期待していたが、それはすべて見覚えのある文字だった。しかし、文章を読んでみると、自分の口から出るのは言葉ではなく、今までに聞いたことのない奇異な〈音〉だった。
 書かれていたのは、文章ではなく唯の文字の羅列に過ぎない。何の規則性もなく、「子供が覚えたての文字を書き連ねた文章」と言うのが的を射ている。彼は残念そうな顔で天井を見上げたあと、肩を落とした。
 ヘッジスを(自分)が揶揄(からか)う。
(何を期待してたんだい?)
(いや、もっと何か知らない文字が書かれているのかと思って…)
(例えば?)
(例えば…、分からないよ)
(これでもいいじゃないか)
(だって、ほとんど知っている文字じゃないか)
(知ってても読めないんだろ?)
(読めるさ。ただ読めても意味が分からない。こんな言葉はこの世の中にないよ)
(じゃあ、そうだな…。パズルだと思えばいいじゃないか)
(パズルね…)
(そうさ、パズルさ)
(でも、簡単なパズルになりそうだね)
 彼は溜息をつき、鞄から新聞紙を取り出した。適当な大きさに切られた新聞には、大統領選挙を伝える記事とガロー新聞の社名が見えている。
 ヘッジスは本に目をやり、また溜息をついた。それでも、子供が玩具を大事にするように、ゆっくりとページをめくった。一枚めくるごとに新聞紙を挟み入れ、そしてまた息を止めては同じ作業を繰り返した。
 外を見ると明け方近くになっていた。
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