第 7話 停電

文字数 1,885文字

 挟み込まれた幾枚もの新聞紙が顔を覗かせている。ヘッジスは八日の間、新聞紙を取り替え続けていた。一枚抜き取ってみると、もう湿ってはいない。
 彼は一枚ずつ丁寧に抜き取ってごみ箱に投げ込んだ。ごみ箱は七日分の新聞紙で一杯になり、八日目の紙はごみ箱の周りに思い思いに落ちていった。すべての紙がなくなった本は口を開いたままで、閉めようとすると小さく乾いた音がする。そして、手を離すと今度は音も立てず、ゆっくりと口を開いていった。

 突然に部屋の電気が消えた。この辺りでは大雪が降るといつもこうなのだ。これを繰り返さないと本当の冬は来ない。
 彼は(またか)と呟いた。
 ストーブの明かりに浮かんだ部屋は熟れた柿色に染まり、いつもより暖かく感じられる。鋳物で造られたストーブが、その伸縮により鋭い音を壁に突き立てた。
 彼は、柿色の光に沈む黒表紙の本から目が離せないでいる。何かが滲むように浮かび上がるのを感じたからである。
 理解するのに時間は必要なかった。氷の下で鳶色の髪が揺らいでいる。その腐敗した人形に瞳はない。何も言わず、ただ見上げ続けている。
 彼は目を閉じた。しかし、像は消えることなく流れる渦のように姿を歪め、やがてヘッジスを哀れむクラメンの顔に変わっていった。
 彼は逃れるように窓際に近づいていった。白く曇るガラスを手で擦ると二重の像を結ぶ自分が現れる。その一人はキャンパスで転び続ける滑稽な自分に姿を変え、もう一人はクラメンに見つめられる憐れな自分に姿を変えていった。彼は頭を振りながら(分かってるさ)と呟いた。そしてこの幻影が頭から離れていくのを辛抱強く待ち続けた。
 暫くすると外で大きな声がした。外では服を何枚も着込み、黒い雪だるまのようなエンヤ婆さんが金切り声を上げている。
「雪が電線を切ってしまったんだよ。男衆、さあ治しておくれ!」
 襟首を掴むようにして爺さんを追い立てるエンヤ婆さんが、他の男達も叱咤している。ヘッジスはその滑稽な仕草に、ほんの少し心が安らぐのを感じた。爺さんが雪に足を取られながら、何人かの男達と山の中へ消えていった。
 暫くすると部屋に明かりが戻った。ストーブの柿色の明かりは、薄暗い電気の光に追われて消えている。表面だけを映し出す光の中で、幻影もヘッジスの目の前から消え去っていった。
 修理を終えて帰って来た男達の笑い声が消えると、ヘッジスはもう一度頭を振って机に向かった。

 もう珈琲は冷たくなっていた。机の上には几帳面に書かれた幾枚かの紙が散らかっている。ヘッジスは、黒表紙の本の冒頭の数十ページを写し終え、大きな溜息をついた。そして、白い湯気を出すケトルを乗せたストーブに手をかざした。結局、彼は手が温まるのも待ちきれず、写した数枚の紙を持って部屋の中を歩き始めた。
  書かれた文字は、最後まで隙間なく連なっているが、僅かの違いもなく今の文字である。何度見ても文章は理解することはできなかったが、書き写す途中に一つの発見があった。彼は、その中から読める単語を一つだけ見つけたのだ。
 彼は書き写したその部分を丁寧に見た。文字の羅列の途中に記号で結ばれた文字があり、そしてまた羅列が続いている。不思議なことに彼の読めた単語は、その括弧の中に書き込まれていた。
(フロスト)
 それは現代でも人の名前によく使われる文字列だった。たった一言であったが、彼にはこの発見が大きな喜びとなっていた。何ら掴み所のなかったところに意味が与えられたのだ。彼は(フロスト…)とうわ言のように言った。
 ヘッジスは他にも理解できる単語はないかと探してみたが見当たらない。そして、声に出して読み上げてみたが、やはり抑揚のない意味不明な音が耳に届くだけだった。
 彼は、紙を放り投げると机の中から本を取り出した。そして、一頁づつ慎重にめくり、丹念に調べ始めた。
 彼は、途中で幾つかの単語を見つけたのだが、それは不思議にも(フロスト)と同じように括弧の中に納まっていた。
(ギラント)
(ノアン)
(アダン)
 全ページを探した結果、彼は幾つかの単語を発見することができた。しかし、その他の文章は、やはりただの羅列であり理解できない。
(僕にも、読めるかもしれない)
 僅かの文字が読めただけで、ヘッジスの心は舞い上がった。彼には、この単語は誰でもすぐに気が付き、誰でも読めると言う認識が欠落していた。
 彼は、興奮気味に書棚の前まで行くと背表紙に目を走らせた。そして一冊の辞典を抜き出す。(かど)()められた本は、少し(かび)の匂いがする。
 書棚には、古い言語を操る辞典などあるはずはないのだが…。
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