第36話 絶望

文字数 2,172文字

『解読者、窃盗で停学!』
『国際考古学委員会から解読内容に疑問!』

 ガロー新聞を除く新聞社のすべてが、大きく一面で報じていた。記事は、事実と悪意が巧みに織り交ぜられ、欺瞞(ぎまん)に満ちていた。一部の新聞に至っては、デラ教授へのインタビューが歪曲され、ありもしない学生の虚言癖についてまで書かれていた。多くの新聞が、ヘッジスの信用を失墜させるという使命を完遂していた。
 最古の文献の解読が、既に国民的な関心事となっていること、また大統領選挙への影響も絡んで新聞の販売数は驚異的に大きく伸び、歴代最高を記録していた。

 最初に訪れたのはリストだった。彼は、玄関で座りこむヘッジスの肩を優しく叩いた。腕を取ると部屋まで連れていったが、それはまるで牛を牛舎に運ぶ作業に似ていた。リストは珈琲を点てる間、ヘッジスにかけてやれる言葉を探したが、頭の中に適当な言葉は見つからなかった。
「辛いだろう」
 ヘッジスは壁を背にしたまま座りこみ、何も答えなかった。リストは肩より低く頭を垂れたヘッジスを見て言葉に詰まった。彼は部屋の中を歩きながら、無理やり言葉を捻り出した。
「私が国際考古学委員長だったことは君も知っているだろう…。実はね、誰にも話せなかったことなのだが、私は考古学委員会を辞めさせられたんだ。なぜだか分かるかね?」
 リストは、ヘッジスを見たが反応はなかった。
「君が解読したあの文献だが、実はあれは発表の一年半以上も前に発見されていたんだよ。そして、解読を終えた後で華々しく公表する予定だったらしい。もちろん私のアイデアではないがね。その解読の責任者が誰だったと思う?」
 ヘッジスは壁に張り付いたまま少しも動かず、聞いているのかどうかも分からなかった。
「それが、この私だ」
 その言葉に、ヘッジスが少しだけ顔を上げたように見えた。
「私達はあの解読に一年半をかけた。世界から()りすぐられた専門家の集団が挑んだが、全く歯が立たなかった。おそらく、あのまま続けていても無理だったろう」
「……」
「私は、この仕事を取り上げられたが、それでも解読できるのは私達しかいないとの自負があった。しかし、数日前に大変なことが起ってしまった。君だよ…、君が解読してしまったんだ。君は天才…」
「教授、もういいです」
 ヘッジスは小さな声でリストの話を遮った。
「もういいんです。僕は天才ではなくて泥棒なんです...」
「な、何を言うんだ。君は決して泥棒なんかじゃない!」
「でも教授、新聞に書いてあります。名前が出ていなかっただけ幸せです」
 声を荒らげたリストにヘッジスは静かに答えた。「いや君は…」リストの言葉は、階段を駆け上がる慌ただしい音に遮られた。
「ヘッジス!」
 ドアが激しい勢いで開けられ、壁に当たって大きな音を立てた。撥ね返るドアを手で押し止めたのは、肩で息をしているクラメンだった。
「ヘッジス!、大丈夫?」
 ヘッジスは顔を上げずに「ああ」とだけ返事をした。クラメンがリストを振り返ると彼はゆっくりと首を左右に振った。
「クラメン、もう僕のことはいいよ」
「いいって?」
 ヘッジスはクラメンの問いには答えず、リストを見上げた。
「リスト教授、ありがとうございました。もういいです」
 深い闇の底を漂う瞳がそこにあった。リストは向けられたその瞳が自分を見ていないことが悲しかった。リストがヘッジスにしてやれることはただ首を横に振ってやることだけだった。
「クラメン、やっぱりもう来ない方がいい」
「ヘッジス、なぜよ!」
「この辺りの人は皆が知ってることさ。僕は、大泥棒なんだ」
 ヘッジスは自分を辱めでもするように寂しく(ののし)った。クラメンは「違う、違う!」と言いながらヘッジスの肩を激しく揺すった。
「大丈夫さ、僕は小さな頃から笑われていたんだ。笑う人が少し増えただけさ」
 ヘッジスの朦朧とした表情の中に、ほんの僅かだが悲しげな笑顔が浮かんだ。
「ヘッジス、ヘッジス!」
 いくら叫んでも焦点を失った瞳はクラメンを捕らえてはくれなかった。

 体はひどく疲れていたが頭が眠ろうとはしない。あらゆる悪意に満ちたものが駆け巡る。目を閉じて逃れようとしたが、その幻影の後を追いかけずにはいられなかった。絶望の中にあって、それでも彼は何かに縋ろうともがいていた。しかし、彼に巻き付いた黒い糸は歯痒いほどの粘度を持ち、自由にはしてくれなかった。それでも彼は歯軋りをして抗った。
 ヘッジスは街灯に浮き上がる窓まで這って行き、窓枠を頼りに立ち上がった。割れたガラスの筋が白く光っている。彼は、筋に沿って指を走らせる。そして指先を流れ始めた黒い血を見ていた。
(僕が何をした?)
(僕は何もしていないんだ。泥棒だってしていない!)
(新聞だって好きで載った訳じゃないさ)
 溢れ出るすべての問いに誰も答える者はいない。ヘッジスは息を荒らげ、震える手で頭を強く抱え込む。そして彼は、大声で叫んだ。
「僕が何をしたんだ!」
 それでも誰も答えてはくれず、暗闇は音も立てずそこにあった。
「僕が何をした!」
 ヘッジスは暗闇の中で手に触れたすべての物を、辺り構わず投げ付けた。彼は吼え、肩で息をしながら投げ続けた。
 次の日、彼の家に一通の手紙が届けられた。それは、僅か数行で書かれた退学を告げる通知だった。
その日からヘッジスの家には誰もいなくなった。
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