第16話 天才

文字数 3,799文字

 クラメンの誘いも断り、ヘッジスは本に没頭していた。グラントから借りた本は魅力的で、ヘッジスから眠ることさえも忘れさせていた。
 彼は、まずカプル語の文章の規則性を覚えようとした。カプル語の文字も現在の文字と同じであり、文章は現代と同じように単語を持っていた。それは、現代語に非常に類似していたが、同じ文字列の持つ単語の意味は微妙に異なっている。
 ヘッジスは、黒表紙の本を読むために、カプル語の規則性と単語の意味を覚え、現代語との相違を明確にしようと努めた。彼は眠る時間を削り、カプル語に一週間の時間を費やした。そして、その文字のすべてを黒表紙の本と見比べたが、やはり同じ文字列は見つからなかった。
 彼はひどく落胆した。しかし、いつの間にかカプル語と言う新しい知識を得ている自分に、不思議なほど大きな満足感を感じていた。
 彼は一日中眠り続けたあと、今度はセプト語に取りかかった。セプト語の規則性はカプル語と似通っていたが、文字の繋がりで現される単語は明らかに異なっていた。彼は(同じ文字を使ってはいるが二つは別の言語として進化している)と思いながら、その新しい単語を嬉しそうに眺めた。なぜか楽しくて眠れない。
 ヘッジスは、単語を何とか頭に詰め込み終わると、カプル語と同じように黒表紙の文字と突き合せを始めた。セプト語の単語を一つ拾い上げるとその意味を覚え直し、黒表紙の本の中から同じ文字列を探し出す作業は大変なことだった。
 彼は、これを毎日毎夜繰り返していた。ヘッジスは言語の魅力に憑依され、その楽しさと遅々として進まない解読の中に理解を超えた楽しみを覚えていた。
 結局、黒表紙の文字列とセプト語の共通点を見つけることはできなかった。
 作業を終えたヘッジスはベッドに倒れこんだ。そして毛布を引き寄せると天井を見た。疲れから逃げ出そうとしたのだろうか。ヘッジスの目には、(すす)けた天井にクラメンの笑顔が浮かんで見えていた。
(クラメンは怒っているだろうな)
 彼は、そのクラメンの笑顔につられるように無意識に笑みを浮かべている。
(町にでも誘ってみようかな)
 天井の木材に小さな(ふし)が見えている。それは、消えかけるクラメンの頬の辺りに小さな黒子(ほくろ)を作っている。彼は、そこから放射線状に伸びる四本の線を頭の中に思い浮かべた。
(四つの言語とも同じ文字で構成されていると言う事は元は同じなんだ。そこから、それぞれの進化を経てカプル、セプト、アルダヌと今の言語がある。黒表紙の本の文字は現在の言語の範疇にない。つまり、(ほか)の言語の中にあるか、その元になった言語の中にあるはずなんだ。あとはアルダヌ語だけだ…)
 ヘッジスは押し寄せる睡魔に抗い、無理して体を起こすとテーブルの前に座った。彼は最後の一冊となったアルダヌ語の本を目の前に置いて、大きく息を吸い込んだ。そして、最後の一冊の最初のページに手をかけた。そこには相変わらず見慣れた文字が踊っていた。ヘッジスの頭の中からクラメンの姿は消えている。そして、彼はまた昼と夜の区別なく延々と読み、延々と学び続けた。
 外では、雪が音も立てず静かに積もり続けている。

 ヘッジスは勘違いしていたが、それは眠ってから二日後の昼だった。彼はクラメンに連絡を取ったあと、グラントの家に向かった。
 久しぶりの太陽は目に痛かった。外は雪が深く積り、とても寒い。辺りには太陽に輝く小さな氷晶が煌めき、舞い踊っている。大気の中を宝石の粉が煌めいているようだ。ヘッジスは綺麗だと思った。
 玄関を叩くと、グラントが汗の流れる顔を覗かせた。
「やあ、ヘッジス君。荷物でも整理しようかと解き始めたところだよ」
 グラントは首にかけたタオルで汗を拭いた。ヘッジスは「お手伝いしましょうか?」と言ったが、グラントは左右に手を振った。
「グラントさん、とても勉強になりました。これ、お返しします」
 ヘッジスは、本を両手で包むようにしてグラントに差し出した。
 グラントは、笑顔を取り繕ったものの明らかに落胆した。本を受け取りながら、(諦めるには早過ぎる)と思った。ヘッジスなら楽しみながら、時間をかけて学んでくれると思っていたからだ。
 彼は近い将来、ヘッジスと旧言語について語り合うことを密かに楽しみにしていたが、その思いは僅かな期間で潰えた…はずだった。
「もう?、もういいのかね。この本は役に立ったのかな?」
 グラントの沈んだ感情が、抑揚のない声を出させていた。
 ヘッジスは、眠い目を擦りながら、意味ありげに頬を緩めた。そして微笑みながら口を開いた。
「ハイ、ボクノ、シリタイコトハ、ワカリマセンデシタガ、トテモベンキョウニナリマシタ」
 その言葉を聞いた瞬間、グラントの体の中を激しい痺れが走り抜けた。痛みと言った方が良いかも知れない。彼は目を見開いたまま動けずにいる。
 ヘッジスは、時折目を閉じ、思い出しながら言葉を選んで続けた。
「ウマク、ハナセテ、イマスカ、グラントサン?」
「……」
 それは、グラントを絶句させる程の見事なカプル語だった。そして、その文法は完璧だった。
「は…発音は最低だが、素晴らしい…カ…カプル語だ」
 グラントは、驚きのあまり言葉を震わせていた。
「アリガトウゴザイマス。イマカラ、クラメンニ、アイマス。サヨウナラ、グラントサン」
 グラントは更に目を剥き、完全に言葉を失った。扉に手を添えていなければ倒れていたことだろう。彼は、体が思うにならないまま(セプト…)と頭の中で呟いた。
 ヘッジスは、カプル語に続きセプト語でグラントに話しかけていたのだ。
 グラントは自分が呼吸しているのかさえ分からない。それでも去っていくヘッジスに、なんとか掠れた声をかけた。
「ヘッジス君、ア…アルダヌ語は…、アルダヌ語も理解したのかね?」
 ヘッジスは歩を止めて振り返った。そして、グラントの動揺した様子を不思議そうに見ながら「たぶん、だいたい理解できたと思いますが…」と遠くから答えた。
「す…少し話してくれないか?」
 グラントは乾いた喉に唾を流し込んだ。ヘッジスは頷き、玄関口まで戻って来るとアルダヌ語で話し始めた。
「カプルゴ、セプトゴハ、オナジヨウナ、キソクセイヲモッテイマシタガ、アルダヌゴハ、マッタク、ドクジノモノデシタ。…これでよろしいですか?」
グラントは、信じられないと言った表情で首を振った。そして自分自身を落ち着かせようと大きく深い呼吸をした。
「わ…私は非常に驚いているんだよ。なぜこんなに短い時間で三つの言語を覚えることができたのか…不思議でならない」
 ヘッジスは少し考えてからグラントに答えた。
「楽しかったのです。ですから何度も何度も読み返しました。カプル語もセプト語も、そしてアルダヌ語もです」
「楽しい…か。空腹こそ最高のスパイス…それが一番なのかもしれないね」
 グラントは、この想像を遥かに超えた才能を持つ青年から目を離すことができなかった。ヘッジスは屈託のない顔で笑っている。そして軽く頭を下げると、走って坂道を下りていった。
  グラントは、荷物用の紐を持ったままその場に立ち尽くしていた。冷たい冬風が吹き付けなければ、いつまでもそこに立っていただろう。彼は我に返ると呟いた。
「たった三週間の間に…」

 遠くで待っているクラメンを見つけて手を振ると、クラメンは何度か飛びあがり大きく手を振って応えた。
 クラメンは、ヘッジスに走り寄り「三週間も放っておいてよく誘えたものね」と言いながら嬉しそうにヘッジスと腕を組んだ。ヘッジスは巻かれたクラメンの腕に体を緊張させながらも「ごめん、忙しかったんだ」と素直に謝った。
「何してたのよ、また変な本?」
「そう、今度はグラントさんが貸してくれたんだ。あれはたぶん貴重な本だな」
「なぜあなたに分かるのよ?」
「だって、図書館で探してもなかった本なんだよ。絶対に貴重な本さ」
 ヘッジスは、話をしながら何とか腕から逃れようと企てたが、クラメンは腕を離さなかった。
「グラントさんは何をやってる人なの?」
「仕事を探してるって言っていたけど…分からないよ。まあ、僕と同じで若い頃に歴史や考古学に興味があったんだって…」
「へえ、グラントさんも変わっているわね。それで、その本は楽しいの?」
 ヘッジスは、嬉しそうに微笑んだ。
「モチロン、トテモ、タノシイデス」
「何なのそれ?」クラメンが怪訝な顔をして言った。
「アルダヌ語だよ。グラントさんから借りた本で覚えた昔の言葉なんだ。調べていたら楽しくなって…何か…こう、嬉しいんだよ」
 ヘッジスは意味のない手振りで何とかクラメンに気持ちを伝えようとしたが、それは無駄に終わった。
「そんなに楽しいのなら、私なんか誘わなければいいじゃない。それでヘッジス君、今日は私と本のどちらを選ぶの?」
 ヘッジスは、少々不貞腐れ気味のクラメンに気付くと「ごめん。もちろんクラメンさ」とまた謝った。
「じゃあヘッジス、おいしいものでも食べに行こうよ」
「賛成だ。行こう!」
 クラメンが嬉しそうにヘッジスを見上げた。彼女は日増しに明るく逞しくなっていくヘッジスを見ていた。それがクラメンには堪らなく嬉しかった。彼女は組んだ腕に少しだけ力を入れて小さな声で「ヘッジス?」と声をかけた。
「なんだい?」
「頑張ってね」
 ヘッジスは、壊れたような笑顔をクラメンに向けた。
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